文化の相違の基は狩猟牧畜民と農耕民
(移動文明から定着文明へ)
木や植物は大地に根を張ってゆく
徐々に時間をかけて根を張ってゆく
細密に毛根を土に伸ばしてゆく
それは女性の定着的心性である
子供を産み育てることは土着的である
子供はすぐに育たない
愛情をかけて長い時間で育つからである
だから農業は女性に向いていたのである
一粒の種をまき肥料をやり水をやり育てる
それは子供を育てるとにている
一方で狩猟はこの逆である
肉食の動物は狩をする一瞬が勝負である
その一瞬を逃すと飢え死にもなる
だから機敏に体全体が反応している
猫の耳はレーダーのように敏感に反応する
一瞬をとらえるために油断なく構えている
そして電光石火に機を見て襲いかかる
獲物をしとめるのは全身の本能の力である
一瞬のチャンスを逃すと獲物はなく飢える
死にいたる恐怖がある
だから獲物をとる機会を逃してはならない
獲物をとるために全身をぬかりなく働かせる
植物と動物の相違は男女の性のように大きい
だから狩猟民と農耕民の思考は根本的に違って
二つは一致しない文化の相違になる
文化という時、狩猟や牧畜と農耕は男女の差のように生活形態が違っている。だから互いに理解することはむずかしかった。
それでモンゴルが騎馬民族として農耕民を襲ってくる。食料がなくなるから襲ってくる。牧畜民は肉食であり農耕民は草食だともなる。
両者は理解しがたい文化の壁をもっていた。だから争いがやまなかった。
それは草食動物がいて肉食動物がいて植物と動物がいて男女がいてとその二つの世界は全く別なものなのである。
女性はどうしても農耕的な側面をもっていて狩猟や牧畜民は全く違った文化である。
農耕は女性的であり狩猟や牧畜は男性的だとなる。
言葉でもI cache a bird ととなり主語の次に動詞が即座にくることでもわかる。
それは狩猟民や牧畜民の言葉なのである。つまり主語があって常に獲物をとらえる動作に入っている言葉である。
狩猟民の感覚は農耕民とはまるで違う、瞬間が勝負である。
だからギャンブル的でもある。好機とあらば襲いかかる。
西欧文化は文明はこの狩猟民や牧畜民の系統をひく文化である。
冒険であり好機をとらえるギャンブル的であり一攫千金をものにする。
農耕民のように日々営々と働き勤め貯える感覚ではない、一気に好機をとらえ一攫千金をものにする。
そういう姿勢は狩猟民であり牧畜民である。
また狩猟民と牧畜民は移動する、動物のように絶えず移動する。狩猟民も餌を求めて移動する。
牧畜民も羊を連れて草を求めて移動する。
農耕民は定着してその土を耕して実りを得る。その差が全く互いに理解できないほど大きいから
文化を理解しあうというときそこが大きな壁となっているのだ。
商人となると移動するから狩猟民であり牧畜民的な心性となってゆく
だからヨーロッパで大航海時代が生まれたのもそのためである。
牧畜民が船を発明して海洋民族になったという人もいるのはそのためである。
そしてどちらにしろ移動する時は方向が大事になるから星が目印になる。
それで砂漠地帯や草原地帯の旗印は星と月とかになる。太陽がない。
太陽は農耕民のシンボルであり日本はそうなった。
北斗七星信仰も方向を知るためであり妙見信仰もそこから起きた。
戦国時代は侍は戦争のために移動するから狩猟民や牧畜民的になり商業が発達した。
信長の楽市楽座とかそうであり信長は商人的であり農民的ではない。
家康は農民的であり300年の鎖国時代を作った。
ただ人間の心性として農耕民的な定着性と狩猟民や牧畜民の移動性、モバイル的なものはもっている。男女があるようにそれらは別々にあるものではない、でも猫でもオスは出て歩くがメスはあまり出歩かないという時、動物でも男女の差があるのかもしれない。
男性はどうしても狩猟的であり牧畜民的である。ただ牧畜は狩猟の延長であり動物をならすということでは農耕的な側面もあったのである。狩猟は全くそうしたものはなく一発獲物を狙いとるというごけである。そこに繁殖させて増やすという志向はないからだ。
その時代も一段落すると定着的農耕民的志向になる。現代があまりのグローバル化でかえって疲弊した様子が生まれているのもそのためである。グローバル化というものがすべていいものではなかった。日本文化が各地の文化が一様化されるのなどその国独自の発展生成の文化を作り得なかった。それは国内でも東京一辺倒でまねばかりの文化だったとか言われるのと同じである。
小さな畑でもそこが一つの小宇宙である。そこにはやはり富があり実りが隠されていた。それを掘り下げればそこに富が生まれる。耕せば富が生まれる。外国まで行かなくても富はその小さな狭い土地にもある。それが江戸時代だった。その後も一反でも米の収穫量は品種改良など増大したしブランド品が生まれた。米は前よりどこでもおいしくなったのである。つまり広大な土地がなくても富は生まれということである。
現代がどういう時代か、それはもうグローバル化という怪物的な経済の中で生きることではない、株でもそうである。絶えず変動して定まらない、狩猟民的一攫千金を求めるのが株式社会である。そういうのに農耕民の日本人は向いていない、こつこつと働き努力して貯えるのが農耕民だからである。株は絶えず好機をとらえ売ったり買ったりしていないともうからない。そういうのに日本人は向いていない。安定的に収入が入ってくるのが向いている。日本人は冒険的ではない、もともと農耕民でありそうした博打的な経済には向いていないのである。
現代の不安なストレス社会はやはり男性的な狩猟民的な移動社会変化社会のためである。ストレスをかかえるからタバコをやめられない、酒をやめられないとか中毒になる。
女性もストレスが大きい社会である。男女平等はいいが男と同権になるにはそれだけのストレスもかかる。そんな才能が女性にはもともとない、だから小保方さんの万能細胞も嘘だった。そんな簡単に夢のような発見はてきないものだった。
ただストレスがかかり女性でもできるんだという功名心の結果あのようになったのかもしれない。その真偽は不可解である。
日本は今グローバル化ではない,日本の土地に根ざした国風文化の再興の時代を目指すべきである。狭い土地でも故郷でも灯台下暗しであり、こんなところがあったのか?
最近近くを見直して感嘆した。一番近くの良さが見逃されていたのである。
それは震災以後に当たり前のことがいかに大事なことだったか幸せなことだった再認識したことでもわかる。
当たり前なことはそれが意識できない、失ってみて初めてそれが幸せだったと認識できる。
誰も故郷に住むことなど当たり前である。それが住めなくなったことである。
田畑があるのは当たり前でありそれがなくなったことで田畑も見直す、家族が一緒に暮らしていたのがばらばらになる。
大家族で暮らしていた家が田舎ではまだありそれがばらばらになってしまったとき、一緒に暮らしていたときが幸せだったとふりかえる。
それは結局病気になってはじめて健康のありがたさをわかったのと同じだったのである。
いづれにしろ遊牧民だと深く物事を仕事でも掘り下げられない、一定の場所に樹のように根付く時、その場所での認識が深くなる。
だから歴史的なもの長い時間で作られたものは理解しにくいのである。
だから意外と自分の住んでいる狭い場所のこと故郷のことでもわからないことが多いのである。
丈夫でよく働き病気をしないで、多産、そういう黒人同士をかけあわせて、より頑強な子供をつくらせた。牛や馬となんら変わらないやり方、つまり狩猟・牧畜民族の伝統である
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/391886949.html(心に青雲)
今日の「心に青雲」の記事は面白い。
人間をやはり動物のように家畜のように処理できるのは遊牧民だからである
こういう発想は農耕民にはできない
植物の品種改良はしても動物や人間まで同じ発想ではできない
こういうことは日常的な生活から生まれてくるからだ
人間の品種改良に抵抗がない
ナチスがアリーア人が優秀だからあとは滅亡するべきだとか言った論理になる
つまり農耕民と牧畜民の文化の差は男女の差のように大きいのである。
そのために理解できないことが多々あるのだ