2008年01月03日

枯山水(新春−石の句十句)

stonebeauty.jpg

日々語る石の表情年明けぬ
 

new year come again
expressins of stones
change day by day


石三つ反り迫るや冬の朝

冬の朝頑と迫りし岩一つ

three steeping stones
strictly in front of me
in early winter morning


枯山水水の音聞く冬の朝

鳥の音の石にひびくや冬の朝

石の影水に写すや冬の朝

京の庭枯木の影や茶室かな

冬の雨飛び石濡らし茶室かな

冷える朝石静粛に沙の海

醍醐寺の花見を終えて秀吉のそのあとなしも冬の庭見ゆ
 
石には無数の表情がある。一つ一つが石に個性あるとしたら無限にある。その個性は人間的にくみとられていない、自然にはそうした人間化されない野生の石が未だに無数に残っている。京都に取り入れられた石の庭はその一部にすぎないのだ。別に京都の庭を見ないでも石の表情は見ることができるのだ。石はいたるところにあり良くみられていないものである。花は目立つが石は目立たないからだ。石はまた平凡であり地味でありその味わいがわかるのには時間がかかるのだ。「老子石」という石を発見したのも60年間生きて今になって発見したことでもわかる。石の美質は深く隠されている。花は美学なのだが石は哲学なのである。石は内観に適しているから禅とか宗教に通じている。心の中で様々なものとしてイメ−ジされるからである。だから枯山水という鑑賞の庭ができた。水がないのだが水がイメ−ジのなかにな流れている。かえって水がないことにより水の音を流れが見えるのである。
 
石というのは絵に描いてもその本質は描けない、語っても語りつくせない、石は内面的要素を多くもっているからそうなっている。禅は他の宗教と違い極めて哲学的なのである。哲学の要素を大きく取り入れたものである。他は題目だけを唱えていればいいとか単純だから庶民化し大衆化して御利益宗教になって終わっている。禅は大衆化しないところに意味があったのだ。石の美質や意味は一瞬見てもわからない、石が長い時間の産物であるから時間の経過のなかでしかその本質が見えてこないのである。だから京都には多くの庭があってもその庭は一回くらいみても印象に残らないのだ。美術品でも一品を何度も見ていれば会得するものがあるが観光で一回くらい多くの庭を見たり美術品を見ても印象に残らないのだ。文化は奥深いから京都は文化都市だから京都を知ることは観光ではできない、内観的要素が文化にあるから京都はそこに住んでみて文化が身につく、現実何代も家元とかあって文化を身につけていることでもわかる。一代くらいでは文化も身につかないのである。そこにまた弊害もある。新しいものを受けいれないとか固陋になるとか型にはまるとかなる。
 
古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉
 
この古池は京都の池である。京都には古い池が多い、江戸は新しい土地であり元禄時代でも京都、大阪に比べれば新開地だった。この句は芭蕉のイメ−ジのなかで創作されたものであり実写ではない、現実は私がこうしてイメ−ジ化して京の庭の俳句を作ったことでもわかる。俳句は写生でもイメ−ジとして想像で作れるのである。芭蕉の句には内観的なものが多いのだ。蕪村は画家だから視覚的になるが芭蕉は耳の詩人というように内観的なもinsight visionの詩人なのである。だからこの句も芭蕉の内観から生まれたもので実写したものではない、古池は京の庭であり蛙飛び込むはその古池に新しいものを変化をもたらす音である。静と動の対象的な世界を短い一句に現したので名作となった。古池は京都であり飛び込む音は新興地の江戸の華やかな元禄時代を示していたのだ。ここにはそうした時代的背景、時代の気分が現されていたのである。芸術でも時代の背景を読むことが必須である。その時代でしか作れないものが必ずあるだ。
 
醍醐寺の花見を終えて秀吉のそのあとなしも冬の庭見ゆ
 
醍醐寺の庭は秀吉が晩年工夫をこらして作ったとNHKのハイビジョンの「京都庭物語」で語っていた。その庭は石組みの上に石をのせるのではなく土を固めてその上に庭の石組みを作っていた。これまでにない方法で庭を造っていたのだ。これだとより自然的だからそうした。秀吉は一夜城から天才的土木事業者であり建築家だったのだ。醍醐寺の花見のあとに秀吉はすぐに死んだというのも歴史の哀愁がにじんでいた。その後も残された秀頼と淀君の権力への執念は大坂城が火につつまれて落城するまでつづいていた。権力への執念はこの世では延々とつづく、秀吉が醍醐寺に作った石の庭でも秀吉には石の庭作りには適していなかった。石の心は秀吉にはわからない世界であった。豪壮な聚落第とか大坂城や名護屋城などが適していたのである。それは信長の安土桃山城の継承でもあった。しかしそれらはまさに夢幻と消失したのだ。
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