2014年03月17日

福寿草(猫と石と家)


福寿草(猫と石と家)

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幸いや石の動かず福寿草

春日さし動かぬ石や介護かな
我が家になじみし猫や福寿草
我が庭を猫の歩みぬ福寿草


新田川流れの光り春の日や原町に来て国見山見ゆ

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今日はあたたかでまさに春だった。原町の実家と鹿島の墓参りした。
墓は立派な墓を残すべきではない、跡継ぎがいないと金かけて立派な墓を作ってもあとは邪魔になるだけである。そして墓は簡単に取り壊すことができない
もし卒塔婆のようなものを建てるだけだったら取り除くのも簡単だからいいのである。
そもそも墓に前は土葬していたし墓に骨入れること自体めんどうなことになる。
骨が入っているとそこに死者がまだいるとなる。

だからなんか骨をもってゆくと死者が墓からいなくなったような気分になるだろう
そこがまさしく空っぽになって何もないとなる。
親戚で骨をもってゆくというがすでに墓に名前と戒名は刻んでいる
でもその人は娘になっているから骨をもってゆくとその名前と戒名も消すほかないのだろか?

これも死者が何なのかわからないからどうして処理していいかわからないのだ。
彼岸になったので墓掃除とか墓参りしたのでまた考えた。

新田川が春の光がさして水面が光り国見山が見えた。
国見山は原町からしか見えない、国見山に上った時は小高、原町、鹿島区が一望に見える。
でも地上になると原町区からしか見えない、そんなに目立つ山でないから今までは注目していなかった。
鹿島区だと鍋の形をしたなべかんむり山が象徴的な山である。
必ずその市町村にはシンボル的な山があるがそれは外から来た人にはわかりにくいのだ。


福寿草が咲いて庭の石が動かない、猫も半分野良猫なのだが自分の家になじんでいる。
猫はずうずうしいのだ。座布団に座ってのうのうと休んでいる。
猫を飼うということは猫に餌をやったりと猫に仕えることになる。
猫様になってしまうのだ。ニャオニャオと餌をねだりあとはのうのうと寝ているだけである。

でも猫は家の主のように家につくという、犬は人につくという、猫は家にあっているペットなのだろう。
部屋が七つもあれば猫の部屋があってもいいとなる。
ただ便をしたので部屋にはいれない、しつけもめんどうなのである。
生き物を飼うことは手間だしめんどうなのである。
だから本当は自分はルーズだからむいていないけど餌をやっていたら家にいついてしまったのである。


母のことをふりえると92才の時、2年間アパートで暮らし、それから交通事故になり三カ月病院で暮らし、
あとは一カ月、福寿園で老人ホームに入り最近はまた一カ月入院した。92才からこれだけ動くのは辛いだろう。
結局津波原発事故で死んだ人は移動が辛いことになり環境が変わったからである。
それで老人の関連死が多くなった。
つまり前にも述べたが自分で経験したことを回りでも起きた不思議がある。
家族が分離したことや家を空けて火事場泥棒にあうということも自分は経験してきたのである。
タンス預金が津波で流されたのもあったがこれも結構な金が流れて消えたのである。
自分も津波ではないが火事場泥棒で大金は消えてしまった経験をしている。
だから自分に起きたことそして次に回りで同じようなことが起きているから何なのだろうと不思議に思ったのである。


今や石のように動かないことは幸いである。そこに福寿草か咲いている。
故郷から追われ家族が分離して落ち着く場所がないのは老人にとっては辛い。
若い内は旅ばかりしていたけどだんだん動くのが億劫になるのてある。
老人は石のように動かなくなる。それで心も安定するのである。
そこに幸いがあった。
そんな当たり前のことが幸いだったことをこの辺では気づいたのである。

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