●飛鳥山から上野の花見へ
飛鳥山上野と花見江戸の春
時移り花見の舞台上野かな
飛鳥山に行くには本郷口、根岸口があると言っていたが、江戸時代には上野の山では鳴り物入りの花見は許されなかった。飛鳥山公園は、八代将軍徳川吉宗の指示で1270本の桜を植え、大岡越前の時代、江戸庶民のためにこの地を花見の地にしたのが始まりといわれる公園御維新前は寛永寺宮様の御領地を支配する御代官田村権左衛門なるもの、山内取締をなし、其使役する者に山同心と唱え、紺の股引、山の字を付けたる半天を着し、赤房を付けたる十手を腰に差し、喧嘩等あれば直ちに取鎮むなり。そのため悪き輩少なく、女子供の遊び場所には適当なり。幕末下級武士の記録 時事通信社」
「松杉の上野を出れば師走かな」とあるようにここは代官の所有地であり松杉の森も人工林であり自然の森ではなく所有地であった。上野は管理された森であり花見であったのだ。
ここでは飛鳥山のような規制はなく自由であり飲めや歌いやの花見所だった。飛鳥山は今の十倍くらいの大きさであり江戸の上野とか飛鳥山でも大きな自然のある世界でありビルの谷間になっている小さな自然ではない、そこが江戸時代と今の根本的な相違なのである。
歴史をたどると飛鳥山の方が豪勢な花見があった。その飛鳥山も自然が大きく広がっていた。江戸は回りが広い田野であり農家が身近にあった世界なのだ。上野は明治になってから花見が盛んになった。荒川都電から飛鳥山の満開の桜を見た。これは「花の雲鐘は上野か浅草か−芭蕉」と類似俳句になる。江戸とか京都には名所がいくつもあるからそうなる。ただ東京はあまりにも猥雑になりすぎたのだ。江戸時代は本当に浮世絵のような世界だった。余りにも美が損なわれてしまった。上野にしても何か猥雑すぎる。「松杉の・・」からは余りにもかけ離れているし人間もごちゃごちゃして猥雑になりすぎたのだ。そこに不良外人もたむろしているから人間によって汚されすぎたのだ。
豚煮るや上野の嵐さわぐ夜に-正岡子規
子規は病気を直すために豚を食ったりした。その頃豚とか牛を食うのはまれだった。肉食は忌避されていた。でも病気だとどうしても直りたいから禁も破るし上野という新しい時代の嵐がさわぐ夜に食べたのである。今でもこうした猥雑さが何でも許されてしまう現代の猥雑さが上野やすべての都市を醜く汚いものにしてしまったのである。
●上野は集団就職で故郷を偲ぶ場所に
上野不忍池弁天堂に向かって左岸辺に春夫の献詩を付した「扇塚」がある。碑には春夫の筆跡で〈扇塚/あゝ佳き人のおも影は/しのばざらめや不忍池乃保とりに香を焚紀かたみのあふぎ納めつゝ/佐藤春夫〉と彫ってある。初代花柳寿美が45年間 愛用した扇を埋めたもの
しのばずの池は人をしのぶ池であり上野は遠くみちのくの故郷の親兄弟を偲ぶ池ともなる。
集団就職組今上野でホームレス? 俺も昭和34年に青森から来たその仲間
だけど 考えてみれば安い労働力の使い捨てみたいなものだったからな!
仲間の半数は東京に疲れ青森に帰って行ったけど残りの半数はなんだかんだ
とがんばって今まで生きてきたよ おれは下町で小さなすし屋をせがれに
任せて青森から一緒に集団就職で出てきたかみさんとのんびり隠居ですよ!
臨時列車に乗って旅立つ集団就職列車が有名である。集団就職列車は1954年(昭和29年)に運行開始され、1975年(昭和50年)に運行終了されるまでの21年間に渡って就職者を送り続けた。就職先は東京が多く、中でも上野駅のホームに降りる場合が多かったため、当時よく歌われた井沢八郎の『あゝ上野駅』という歌がその情景を表しているとして有名である
彼等の就職先はほとんどが中小零細企業、いわゆる町工場や商店などで、当然、住込みとなるわけだが、賃金は約3,000円から4,000円。当時の高校卒初任給の平均が11,560円、大卒で17,179円であったことを見ても、いかに安いかがわかる。しかも労働条件は過酷であった。平均労働時間は10時間、休みは月に2回あればいいほうで、ほとんど無いところもあった。住込みであるがゆえに休みが取りにくい状況だったわけだ。
「あゝ上野駅」の伊沢八郎さん亡くなる
http://www.ringohouse.com/dramafiles/03.ueno.html
▼ それでも、都会や職場になじめない若者たちが上野駅辺りを徘徊(はいかい)することもよくあった。ここが故郷との接点だったからだ。駅員たちはそんな少年・少女をみかけると、駅長室に連れてきて、激励会を開くなどしたのだという。昭和40年前後の話である。
同級生でも一クラスで三分の一くらいが集団就職に行ったのかもしれない、兄もそうだった。労働が過酷で円形脱毛症になったりした。私はその頃すでに大学まで行ったのだから恵まれていた。その差は大きかったのだ。でも大学もマスプロ化して駅弁大学とかどこにでもできて庶民化していたのである。上野は東北人にとってはなつかしい場所になる。上野は芭蕉が上野ではないにしろ隅田川を上り千住からみちのくを目指した場所としても記録される。奥の細道への旅路の基点として上野があったのである。上野と東北はその時から結びついていたのだ。
●遠くなってしまった上野−東京
上野出て枯野に夕陽みちのくへ
故郷へ帰れざるかな啄木の悲しや上野に年の暮れなむ
東京は遠くなりぬるみちのくに奥津城のあり冬の暮かな
啄木から上野と東北はむすびついていた。ただ今や上野も東京も遠くなった。実際は今の感覚だと常磐線で3時間半だから遠いとはいえない、でもその3時間半がスビ−ド時代には遠いのである。東北線は新幹線で2時間だからだ。つまり今は遠いと言っても隣の市に行くように近いのである。遠さの感覚のない時代に生きている。遠く感じるようになったのは私自身の私的な事情、家族の介護のために離れられなくなったから遠くなってしまったのだ。一日も離れられないという事情がありああもう上野にも東京にも京都にも行けないのかと真剣に思ったからだ。還暦という年もありこののま行けずに死んでゆるのかとさえ思ったのである。だから東京も京都もはるかに遠い二度と行けない世界のように思った。だから奥津城というとまさに東京も京都もはるかに遠くみちのくの枯野の奥津城に納まってしまう自分をリアルに想像したのである。
電車で上野を離れるとたちまち常陸ではあるが陸奥へと枯野が広がり夕日が映える、上野の東京の喧騒は消えて枯野の夕日が映える。たちまちに千万都市の喧騒は嘘のように消えてしまう。本当に今や夢見たような世界である。「草の戸も住み替る代ぞ雛の家 」芭蕉も華やかに住む人も変わってしまった。これが変わらぬ世の実相である。草の戸は別に老人が住んでいる場所が若い人に変わる、若い人がすでに主役となり老人となった団塊の世代もただ昔を回顧するだけになってしまう。時の移りは常に無常でありそれが団塊の世代にもそういう無常を感じる時代になった。時代は急速に流れてゆく、激流となり一時代がまたすぎてゆく。戦争時代もそうであり団塊の世代もまた一時代を築き過去となり歴史となってゆく、それがこの世である。何物も変わらぬものはなくかつて栄しものは見る影もない、それを押しとどめることはできないのがこの世の定めである。