2014年03月06日

方角地名が地名の基 (南とつくだけで明るい感じがする不思議、南相馬市はそうだった)


方角地名が地名の基

(南とつくだけで明るい感じがする不思議、南相馬市はそうだった)

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地名の基本は方角地名である。方角によってその土地の色合いが様子が大枠で形成される。
だから方角地名が一番多い。そもそも東西というときそれを如実に示している。
東西の分かれ目が関が原であり明らかに関が原を境にして西と東に分かれる。

鶏が鳴く 東の国の 御いくさを 召したまひて
壬申の乱で東(あづま)とさしたのは古代にすでに東西の戦いごここで行われたのである。
ヤマトタテルが東征の途中で失った妻・弟橘姫(オトタチバナヒメ)を偲んで、「吾妻(あづま)はや」(ああ、我が妻よ…)と慨嘆したというところから、足柄峠より東を「あづま」と称するようになったとされる。


ここでは関東まですでに東の領域に入っていた。
ただ旅して不思議だったのは必ず方向音痴になることであった。方向が必ずわからなくなる。
京都辺りに旅するなら西に向かっている。西に向かってふりかえれば東の方向から来たことになる。
でも東は福島県の浜通りだと海の方角になる。
だから東風(こち)は春になると吹くのだが南の方から吹く風に感じていた。
だから何か九州のかなたから吹いてくる感じになっていた。でも実際は太平洋の陽の昇る方向であった。
だから風の方向を知ることは意外とむずかしい。

ただその場所を知るには方角がポイントになる。だから地名では方角地名が一番多い。
それがその土地を知る案内になりやすいからである。
東と言うと何か陽が昇る方向だから明るい感じがする。西だと陽が沈む方向だから暗い感じがする。
北だとこれも寒い暗い感じがする。南だと明るい暑い感じがする。
方角地名がその土地の特色を基本的に特徴づける。

例えば琵琶湖の湖西線となると比良の山の下であり陽が沈むので暗い感じになる。
湖東は陽が昇る方向になるから明るい感じになる。ただ山から陽が昇り山に沈む感覚は
浜通りでは感じられないからその感覚がわかりにくい。
北の方角は暗いからそれを嫌って隠した地名のものもある。
喜多方は会津の北に発展した商人の街だから北方だったが喜多方にした。
北を嫌ったから喜多方の当て字にしたのである。西会津となると何か奥まった淋しい感じになる。


それから上下とつく地名も多い、上とつくとそこは早くから開けた土地なのだろう。
下町というと何か庶民の住む場所であり上町というとその土地では場所的にはいい場所だとなる。
事実は鹿島区では前は下町は本当に土地が低く水害で被害があった。
自分の家は二回も水害で被害にあった。それは一番低い場所だったからである。
土地として悪い場所だったのである。ただ今西町となっているがそこは一番
鹿島区ではいい場所になって住宅地になっている。

上がりもの下がりものがあり大阪から来るものは上がりものであり江戸から来るものは下がりものである。
上りは早く開けた大阪にあり下りは江戸へ行くことである。古くは東下りである。京都へは上るになる。
だから下がつくと何か文化的にも下に見られ。
これも方角地名でまず印象づけられているからだ。

永禄11(1568)年織田信長は足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて入京しました。そのころの上京の景観は「上の都は,日本全国の都にして,甚(はなは)だ富みたる人居住し,日本に於いて用ひらるゝ絹物及び緞子(どんす)は悉(ことごと)く此処(このところ)にて製造し,又重立(おもだ)ちたる人々の夫人にして最も高貴なる者住みしが…」「上の都は下の都より大なること二倍なる」(『耶蘇会士日本通信』)というように,御所があり富裕の者が集まる上京に対し,下京は商業街区であり民衆の町でした。

ただ上と下は上があって下がある。だからまず上を知らなければならない。
それがその土地を読むことである。

これは前置きとして南屋形がまずありその後ろの山に入った場所が北屋形になっている。
そこは一段と暗く感じるのである。南屋形というと前は平地であり陽もさすから明るい感じになる。
南海老もそうである。北海老となると山の中になり暗い感じになる。
南とつくと明るい感じになるのが不思議である。実際はそうでない場所だってあるからだ。
南相馬市と小高と原町と鹿島が合併したときそうであった。相馬市から南だから南相馬市となった。
でも考えてみると相馬市は北相馬市になるべきだったともなる。
その方が南相馬市という名前がついたときそれに準じるにはそうした方がわかりやくなっていたのである。
ただすると何か北とついただけで暗くなる。
でも相馬市だと南相馬市が生まれて特徴がうすれたのである。

相馬市はもともと南相馬市と北相馬市であり一つにした方が良かった。
北郷とういのは鹿島区だったがそれは小高に城があるときそこから見て北だからそうなった。
小高が中心地だったからである。

合併するとき名前をつけるのに悩んだ。結局方角地名にするのは無難だったからである。
でも南相馬市となると何か南というだけで明るい感じがするのも不思議である。
相馬市はかえって目立たなくなっているのも名前からすると奇妙である
つまり南相馬市が先進地域であり単に相馬市となっていると特徴がなくなったのである。
だから地名というのはその土地だけでなく隣の市町村にも影響しているのだ。

飯館村は合併しなかったから飯館村として原発事故で世界に知られるようになった。
南相馬市もそうである。合併したら南相馬市の一部となっていたからそうはならなかった。
だから変なんだが飯館村の尊重は村長として威張っていられる。
南相馬市に合併していたら小さな村だから威張ってはいられない。
そして原発の被害でも飯館村は被害が大きかったからそこで飯館村としての損害賠償を請求しやすかったのである。
南相馬市は小高区が一番被害が大きかったが独自に損害賠償の交渉をしにくかった。
なぜなら南相馬市であり南相馬市として主張せざるをえないしろその賠償金をめぐって
小高ー原町ー鹿島はみんなもらう金額がちがっていて分断されたのである。
他の警戒区域はほとんど一眼になって賠償金を請求できたのである。


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「南相馬市は小高町と原町市と鹿島町が合併してできた名なんだよ」
南とつくだけで相馬市とは感じが違っていたのも不思議だな」
「確かに南とつくだけで明るい感じがするな」
「それで何か相馬市が目立たないんだよ、相馬市の南だから
相馬市が中心のように見えても南とついただけでこっちの方が目立つんだよ」
「相馬市も北相馬市とならないと釣り合いがとれなかったのかもしれない」
「北となるとやはり暗くなるから嫌だろう」
「相馬はもともと相馬藩だったのだから一つなんだよ」
「南相馬市と北相馬市で一つだったんだよ」
「相馬市が中心のように見えても南相馬市の方が目立つようになっていないか」
「うーん もともと明治は原町機関区ができて原町が発展して中心になっていた
だから南相馬市の方が明治以降は中心地だったんだよ」
「南相馬市の市長はタイムにのったように原発事故で世界的に有名になったよな」
「まあ、飯館村は合併しなくてよかったよ、原発事故では被害が大きかったから
独自の賠償交渉ができる、それに村長も飯館村として威張っていられるからいいよ
南相馬市になったら市長は一人だから威張れないからな・・・・」
「人間は地名でも名に影響されるんだよ、まず名前からイメージするからな」


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