2014年03月02日

広域化したグローバル化した経済がもたらしたもの (愛郷心もうすれモノだけを見て人は注目されない)

 

 広域化したグローバル化した経済がもたらしたもの

(愛郷心もうすれモノだけを見て人は注目されない)

小さな畑で野菜を作っている人が雪で野菜がだめになったというとき
農業は天候の影響を受けやすい、だから農業が中心だった時、
農家でなくても天候に敏感になる。
日本では特に四季の移り変わりが激しいから季語が生まれ俳句文学が生れた。
体力では天候が毎日からりと晴れるような所では天候のことをいちいち言わないだろう。
ともかく雪で野菜がだめになったと野菜を作っている人が言う時、
直接田舎に住んでいる人にはひびく、それは他人事ではないからだ。


それが広域化グローバル化したときどうなったか?
確かに大雪で野菜がが一時的に高騰はした
でもある県でとれなくても別な県ではとれる
北海道でとれないなら九州でとれるし入ってくる
そうなると自然災害でもあまり影響しないともなる
ナーニ日本がだめなら外国から買えばいいともなっている
そういう感覚は戦後20年くらいまでなかっただろう
そんなにまだグローバル化経済になっていなかった

戦後十年は江戸時代の延長の自給自足生活だった
食べるものも燃料も炭でなんでも地元にあるものでまかなっていた
だから農家では納豆まで作っていたのである。

地元で暮らすということは地元の土地の実りと地元の人の労働によっていたのである。
そこに自ずと地元の人の連帯が生れていたのである
まさに協働が共同となっていた。

小さな畑で野菜を作っている女性はいろいろとその苦労を語る
すると野菜一つとるのにも苦労しているなと思う
つまりその野菜ではないモノではない
苦労して作っているその人自身が価値がある重みあるものとなって訴える
その人があって労働があって野菜が作られている
その労働にも価値があると実感として思う
モノより人に注目されるのである。


ところが現代ではモノは商品としてあふれているがモノに注目して
それを作り出している人には注目されないのである
小さな畑でも苦労して野菜を作っているものをもってくれば
それはどういうふうに作られているから実感としてわかる
するとその野菜も大事だがその人が大事であり注目されるのである
でもモノが全国から世界中から入ってくるときは
人より金が大事になる

金があれば別に大雪になっても外国から飛行機で買えるということもある
ただ今回の大雪は交通にも影響したから別だった

普通はモノはいくらでも入ってくるから金さえあれば買えるとなる
第一そのモノがどうして作られたかなど想像すらできないのだ
モノはその土地からも人からも分離してしまっているのが現代である。
だから意外と愛郷心などなくなっているともいえる
別に金さえあればどこでも暮らせるではないかとなるからだ
それでこの辺で原発事故で故郷に住めないとなったとき
若い人は簡単に多額の補償金をもらって別な所に住んだ方がいいとなり
家も建てたり帰らないとなる

つまり愛郷心というのはその土地と人と密接に結びついて育まれるものである

現代はそれは分離してしまった、田舎でもほとんど会社員だかから愛社精神はあっても
愛郷心はうすれているのだろう
原発事故では避難区域になったところは実際に東電の廃炉事業の拠点の街として残そうとすることでもわかる
市町村が実は東電の社員になっていたのである
トヨタの社員になっている市長村もある

愛郷心は人と人のつながりのなかで愛郷心が育つ
人と人との結びつきが広域化グローバル化経済で破壊されると愛郷心もなくなる
だから愛郷心が希薄化するのはそうしたグローバル化経済が関係してたのである

田舎は本来は協働共同社会であった
田舎は陰湿だというのもそこにはマイナス点としてあった
ただ田舎では土地と人と人のつながりが強かったから助けあう社会でもあった
助け合うという意識をもたなくてもそうした自然環境の中で自ずとそうなっていた
「たすけあいましょう」「親切にしましょう」「・・しましょう」というとき
それがなくなったから声高に叫ばれるのである
連帯がないと「連帯、連帯」と前の全学連のうよにスクラムを組んでデモになる
そういうところは連帯がないからこそそれを声高に叫んでんいるのである


現代はグローバル化経済はモノだけどこからでも流通して暴力的にすらなっていると思う
そこで肝心の人に注目されないし無視されている
すると金だけが唯一の価値として物神崇拝になるというマルクスの理論が受けたこともわかる
いくらモノが流通しても金で買えても人間の心はばらばらになっている
自給自足経済では人が大事であり人と人が結び合いその地域を支えあって暮らしていた
だからこそ愛郷心が育まれた

「この野菜は私が耕し苦労して育てたものですよ、買ってください」
「そんなものより、もっといいものがスーパーで安く買えるよ、だから買わない」
こんなふうになるともう地域の連帯もなくなる
人と人のつながりもなくなる
ただグローバル化経済の中で価値あるモノを作らない限り生きていけない

でもいくらいいモノを作って売れても買った人と作った人の連帯は生れない
もっといいモノが売られているよ、じゃ今度はそっちを買おうとなるだげである
そういうところに人と人の持続的連帯など育ちようがないのである

だからインターネットで生産者と直接結びつくような販売で
雹がふってアスバラガスがとれるのが遅くなったが一週間がまんしてくれと連絡があった
契約している消費者はその一週間を耐えた時、生産者との連帯が生れた
でも現実は別に他からいくらでもメキシコ産の太くて安く売っていたよとなれば
そっちを買うのがふつうなのである

だから広域化グローバル化経済はいいようでも人は常に無視されている
作っている人は注目されないのである
だから互いの連帯感も生まれないのである
ただ金だけがあればいい、金さえあればモノは買えるし腹は満たされるという考えになってしまう
それがかえってモラルの荒廃を生み人間同士がバラバラになってしまっているのだ


追記 
労働能力が生産物を自己自身のものだと見抜くこと、そして自己の実現の諸条件からの分離を不埒な強制された分離だと判断すること、――これは並外れた意識であり、それ自身が資本にもとづく生産様式の産物である」(「経済学批判要綱」『マルクス資本論草稿集A』S.371)。「労働能力が生産物を自己自身のものだと見抜くこと、そしてUnrechts――強制関係―自己の実現の諸条件からの分離を不公正―だと判断すること、――これは並外れた意識であり、それ自身が資本にもとづく生産様式の産物である」(「1861-1863草稿」『マルクス資本論草稿集H』S.2287)。

なんだかこれもむずかしいけど労働が本当は一番人間にとって大事なものだということ
労働が自己実現の道であるということ、それが広域的グローバル化経済では労働の価値とモノの価値が分離させられるということ


「労働能力が生産物を自己自身のものだと見抜くこと、そしてUnrechts――
強制関係―自己の実現の諸条件からの分離を不公正―だと判断すること


モノだけが注目されて人が注目されない、人の労働の価値がモノより注目されない
モノと人の労働は分離している
むずかしく言えばそうなるが簡単な例で言えばそういうことは狭い範囲の経済活動でもわかる

この世の中のことは具体的な生活にこそあるのでありマルクスの理論でも
その一面をとりあげたものにしかならない、ただそれがグローバル化経済で顕著になったから
マルクスも見直されるのである


 
 

posted by 老鶯 at 15:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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