私の田舎でもデジタル放送はじまる
●デジタル放送の時代劇専用ちゃんねるを見る
インタ−ネットは長くやっているけどデジタル放送がはじまったのは今月であった。インタ−ネットは光ファイバ−にしたけどほとんど何も変わらない、多少早くなったとしてもそれも余り変わらない、かえってどういうわけか将棋24が見れなくなったのが損だった。インタ−ネットでは今のところ何か新しいものが経験できないのだ。光ファイバ−はインタ−ネットがはじまるときからそこが到達点としてNTTが宣伝していたけど結果的にこんなものかとがっかりした。光電話は全国一律の料金になるから仕事する人に使えるかもしれないがインタ−ネット自体は何も変わっていなのが得られるものがないので調子はずれだった。デジタル放送はまだはじまったばかりなので良くわからないが局が百局とかなるのが変化だった。それで時代劇専用とかを見たが面白かった。昔の映画が新たに見れてまた記憶がよみがえったのだ。映画にしても見ていないものがかなりあるし昔の映画でもテレビドラマでも忘れているからもう一回見て再確認することはいいことである。また違ったものとして見ることがあるからだ。私の場合、江戸時代に興味があるからその場面を再現されることで昔が具体的に蘇ることがある。「上意討ち」という映画でも木戸番がいて守っていた。その木戸番は守っている藩の仲間の侍を殺さねば通ることができなかった。それも木戸番のもっている当時の具体的な重要性を認識させられた。つまり映画からでもドラマからでもわかる歴史がある。ドラマは確かに脚色されるから歴史的事実ではないから問題になるがあくまでも当時のもの思い浮かべる資料のようなものとして見る必要がある。
●テレビを見るのも自分なりの編集が必要
デジタル放送で変わったのは時代劇専用ちゃんねるがありあるテ-マで連続的に時間を気にせず放送していることであった。街道を紹介していたのもそうでありそれを見て草に埋もれた奥州街道(街道てくてく旅−日光、奥州街道−NHKハイビジョン)を評論と鑑賞に即座に書いた。インタ−ネットはテレビでもリアルタイムに見てすぐにプログに書けることが強みなのである。するとインタ−ネットでは共同制作になっているのだ。テレビで見るだけでは今は終わらない、インタ−ネットでも検索して情報を編集できるのだ。今やテレビでもインタ−ネットでも自分なりに編集する作業が必要なのである。情報化時代とはまずふんだんに情報が解放され与えられないと進まない、インタ−ネットの不満はまだ情報が著作権などで解放されていないのだ。著作権は大事にしてもその著作権をテコにして金儲けだけを企んでいる権利を独占している組織がある。そもそも本の世界は膨大な知識の宝庫だった。でもこれも実際は取次ぎ-大手出版社-書店という系列で情報は独占され利権化されていたのだ。その証拠にベストセラ-というのは大手出版社などによって作られるものだったからだ。「中学生ホ−ムレス」とか百万部売れたというがその内容は作られたもので脚色されていたというのもそれを物語っている。出版とは普通の人は簡単にできない、売れるものを作り出す必要がある。それができるのは大手出版社などの宣伝力だったのである。それで文学賞などでも内容がなくても宣伝力で売れるようにするのだ。だからそこからでてくるそういう今までのメデアからでて来るのはまがいものが多かったのである。情報は明らかに取次ぎが検閲のために作られたように独占して外に出さないものとしてあった。著作権というものがあるがたいがい死んだら著作権はその人のものでも誰か受け継ぐもとは違う性質のものである。実際は今や別に出版社でなくても個人単位でインタ−ネットで発表できるのだ。それが青空文庫とかになったのである。
●情報は解放されてこそ知の創造が開ける
デジタル放送では過去のものでも一連のものとして放送される、もう一回検討できるとかがいいのである。なぜなら人間は忘れやすいからである。そしてNHKでも民放でもテレビは本の世界のように情報が閉鎖される世界ではない、解放される。本は莫大な知識が死蔵されている。テレビはともかく放映しなければその存在もわからないのだから一応みんな見ない限りわからないのだから見せるからいいのである。本というのは最近アマゾンから検索でひっかかるのでこんな本があったのかと一円の送料が350円でも結構前より簡単な短いものは買うようになった。認知症関係ではすでに百冊とか買ったのである。つまりある分野ではそれだけ個人でも集められるようになったのだ。認知症関係についてはインタ−ネットでもその情報は莫大である。そこから介護のヒントはでてきたりやはりみんな同じことで悩んでいるとかわかるのである。情報は本でも図書館でも資料など誰にも見られず死蔵されるのが多かったのである。今でも多い、それは情報開示されてこそ社会の役に立つものである。今やデジタル放送百局とか情報解放の時代なのである。もちろん著作権は守らねばならぬものとしても情報が広く深く厚くなるとそこから確かに新たに見えてくるものがある。私はテレビは一旦録画して早送りして見ていい場面だけを自分用に切り取り編集する。それをしたのが草に埋もれた奥州街道(街道てくてく旅−日光、奥州街道−NHKハイビジョン)だった。いづれにしろ今や本さえも全文検索とか解放される時代になるかもしれない、その時膨大な情報に翻弄されることもあるが新たに見えて来る知の創造の世界も開けるのである。一冊、一冊本を売る時代は過去のものとなりつつあるのだ。本は全文検索のようにテキスト化して検索できるようにする。大手出版社はそういうこともできる。インタ−ネットでは常にそういうことをしているからだ。それが真の情報革命でありここにこそ21世紀の新たな情報革命の世界が開けたことを実感したのである。個人でも自分でも書いたものがわからないぼとになったのも自分自身がインタ−ネットとか放送の情報革命を実践した当事者だから言えることだった。