2014年02月03日

南相馬市の桜井市長が原発事故で北海道に逃げたのはデマだったのか? (田舎は毎日噂や人の不孝を楽しむ怖さ)


南相馬市の桜井市長が原発事故で北海道に逃げたというのはデマだった のか?

デマガデマを呼ぶ-火の無い所に煙はたたないもまた真実

(田舎は毎日噂や人の不孝を楽しむ怖さ)


語源は「民衆 (δ?μο? / d?mos) を導く (?γειν / agein)」であり、本来は民衆指導者を指すが、アテナイではペリクレスの死後、クレオンを初めとする煽動的指導者が続き、衆愚政治へと堕落した。このことから「デマゴーグ」は煽動政治家のような悪い意味で使われるようになった。また、彼らの民衆煽動はデマゴギー(独: Demagogie)と呼ばれ、煽動的な嘘や噂を意味する「デマ」の語源となった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%9E%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%B0

ネットでまたしても悪質なデマが広がっている。釣り雑誌に掲載されていた男性が福島県に住む祖父の田舎を釣りで応援すると言い、30キロ圏内で野宿し池や川で釣った魚を食べたことで急性リンパ白血病で亡くなったという話だ。この情報は瞬く間に大手掲示板やTwitterに拡散したが、本日釣り雑誌のライター小塚拓矢さんが『彼は福島原発の30キロ圏内で野宿をしていません』と否定した。
http://www.yukawanet.com/archives/4028726.html




別に田舎でなくてもギリシャの時代からデマはあったからこそデマゴーグという政治手法があり今でも何か全国レベルでデマが広がる。何を根拠としているのかわからないけどデマが広がる。インターネット時代でも発言するのが容易だから全国的にデマが拡散しやすいというのもデマは田舎のような偏狭な人間の集まりでなくても起こることがある。

ただ田舎のデマとか噂はそうしたデマとも違っている。それが狭い人間関係の中で日常的に起きているのである。絶えず隣はどうだ、誰かさんとうだとか中傷が毎日のように口づたいで行われている。面と向かい生活しているからインターネットの空間のデマとは違っている。それが直接的にひびいてくる、だからインターネットの空間より害が大きいし
怖い側面がある。一旦噂になればそれもなかなか同じ場所に住んでいるのだから消えないのである。


だから田舎では犯罪は犯しにくいと思っていたがそれも今は変わってきた。自分が被害者になったからそんなこともなくなったのかと思った。でも実際はそうでもない、一旦悪い噂が立てば田舎では影響が大きい。常に回りから噂だけでも白い目で見られるようになる。別に泥棒でも外から来て逃げてしまいば忘れられる。現実に住み続けていれば白い目で噂だけでも見られつづけるのである。

そして今の住んでいる人でも必ず親のことや祖父母はどうだったとかまで仕事上でもなるからなかなか悪いことはできないということもあった。

だから噂だけでも田舎では怖いとなる。そのこと今回の南相馬市長選挙で起きた。


桜井市長が原発事故で北海道に逃げたというのはデマだった?


市議会長は北海道に逃げたらしいが桜井市長は逃げていないことがわかった。それで今回評価が上がり当選したのだという、とにかく桜井市長の批判は誰でもしていたから当選するとは思っていなかった。これも本当かどうかわからなかった。組の人が回ってきて言っていたので本当だと思った。実際はやはり北海道に桜井市長は娘がてて市議長と一緒に逃げたというのが本当かもしれない。
なぜならそのことが辻褄があうのである。二人一緒に北海道に行く辻褄が合うからだ。
ともかくデマがデマ呼ぶ、自分もデマに踊らされデマをプログでふりまいたとなる。

ともかく田舎ではデマは日常的だからこういうことは起こっても不思議ではない、でも
そのデマに左右されていたら選挙でもまちがった判断になる。今回はかえってデマであることがわかり桜井市長が当選したというのも皮肉である。


放射能でもこれも目に見えるものではないしデマが出やすい、何が本当なのか嘘なのかも判断できない、学者のいうこともまちまちであり科学に弱いものは余計に判断できない。だからデマがとびかう、別に放射能が原因で死んだわけでもないのに死んだとされた。
30キロ圏内で釣りをしていなかったのである。
なぜこんなデマが信じられたのかというと放射能は危険だと特にしたい人がデマをふりまく。何かしら意図があってそうなる。


いづれにしろ田舎ではある人は町内ではなく一キロくらい離れているところに住んでいてそこは回りは親戚が多いので見張られているという。だから女性が入るとうるさいから来るなと言っている。田舎では見ていないようで見ている。穴からでも覗いているのが田舎である。それは特別ではなく何か外を見ているとそうなるのである。
自然と見る範囲がそうなってしまう。都会だったら人が多い建物が多いからそんなことができない、出入りも激しいからだ。田舎では道を通るにしても歩いていると余計に目立つ。誰だろうと特別関心がなくても見ているのである。車だと中の人はわかりにくいのである。自転車でも歩くのと同じく見られやすいのである。


田舎では以前として人間が監視カメラなのである。与那国島に行った時はただ木陰に休んでいるだけで怪しいとされ警察が職務質問に来たのには驚いた。見ていた人が通報したのである。まるで江戸時代だった。与那国島などは本当に狭い島だから一人一人が監視状態になりとじこめられているのだ。今でもそういうことが田舎にはある。
だから都会から田舎で暮らそうとすることは人間関係が嫌になり挫折するのが多い。
田舎の人間は情に深いわけではない、むしろ近くの不孝を楽しむ残酷さがある。
自分もそういう目にあった。助けたりしない、その不孝をじっくりとドラマのように鑑賞して噂にするだげである。それはテレビでも同じだが田舎の方がより直接的なので残酷である。ここが田舎の一番の問題だったのである。

自然は美しくても人間はせこいし狭隘である。農家の人が情があるというものでもない、支援物資でももらうとき汚いとか常に言われている。
田舎でもいろいろな人がいるからいちがいには言えないが総じてそうなるのである。

ともかく田舎では負の力が人間に対して働きやすい、人間をおとしめて喜ぶ傾向が大きい。みんなが低劣化されるのである。誰かをほめるということはない、低劣化されてくる。こういうところでは良いものを作り出しても素直にほめられたり勧められたりはしない、むしろ否定的なものとして何でもいいものに対して働くのである。

常に話題になるのは一番低劣な人でありその低劣なものを中心にして田舎がある。
そんな人に近寄らねばいいのだがそれでもそういう人とかかわっているのである。
だから選挙でも公平な判断はできなくなる。これは田舎だけではないにしろ田舎では極端化するのである。

posted by 老鶯 at 15:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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