碑の一つ烏一羽や冬芒
証とて礎石一つや冬の暮
ピチピチと朝の川飛ぶ冬の鴨
朝の川水はねとばす冬の鴨
定禅寺枯木三本黒い窓
定禅寺盲人も行く枯木かな
定禅寺車に散りぬ枯葉かな
銀杏町古木を守り冬の暮
仙台に来たりて花屋にとりどりのシクラメン映ゆクリスマスかな
定禅寺残る枯葉のかそけくも散るや我またここを歩みぬ
定禅寺昼や枯木に日のさして木の葉散りにき我が来たるかな
定禅寺欅の枯葉一枚や喫茶店に我休みもの想うかな
宮城野原面影もなし冬の日や千歳の銀杏杜に残りぬ
広瀬川には昔の橋の礎石が残っている。これには謂われがある。鴨がピチピチと飛ぶというのも水をはねるのも朝の川にあっている。都会の川と田舎の川はかなり違ったものになる。この道を広瀬川そいに通って橋をわたり今は地下鉄で公園の方へゆき定禅寺にでる、定禅寺はこの名前と欅の並木とで情緒ある通りとなっている。今日は黒い窓の喫茶店に入った。あそこは180円とかで入れるがここは250円だった。でも雰囲気が違うので価値がある。喫茶店は雰囲気を楽しむから場所が大事なのだ。喫茶店というのは昔から好きだった。喫茶店はやはり外の景色も大事であり通りが必要なのである。ビルの下の地下とか全然情緒がない、自然もないところでは楽しめないのだ。喫茶店だけでは今は成り立たないので相当数喫茶店は減少した。特に地方の都市ではそうである。仙台くらいになるとまだまだ喫茶店はある、それも250円ではまだ安いのだ。仙台に住んでいたらこうしして毎日喫茶店に来ることが日課になるかもしれない、仙台は確かに森の都というから木が多いので自然がまだあり情緒がある。黒い窓というときこれを格子窓をイメ−ジした。格子窓から見える景色として枯木がマッチしていたのだ。車に木の葉が散るというときあそこでは車が徐行運転しているからスピ−ドを落としているから自然とマッチする。つまり車で遅くなると自然とマッチして情緒がでてくる。江戸時代の駕籠の遅さには驚く、これは今からすると時が止まったようにさえ遅い感覚なのである。なぜ駕籠だったのか江戸時代は便利なものをかえって制限した時代だったから不思議である。
宮城野原は地下鉄になり何の情緒もない、樹齢千二百年の欅だけが守られ残っていた。ここが銀杏町となっているのはこの銀杏があったからである。それをインタ−ネットで知ったので訪ねてみたが宮城野原をおりてすぐ近くだった。身近でもわからないことはいくらでもある。小さなものに注意すればさらにわからないことがあるのだ。今や近くしか行けないのだから宮城県辺りは交通の便がいいので一日圏として行ける。一日あれば結構行けるもんだなと再発見した。それでも夜8時頃まで帰れればもっと行ける。これがむずかしいのだからあまりにも拘束された囚われの身にになってしまった。