郷倉と現代社会
(緊急時の備蓄機能として維持されるべき農林漁業の見直し)
延暦一四年(七九五)九月、貢納上の不便解消と倉の延焼防止を目的として設けられた「郷倉」(郷ごとに設けられたのでその名がある)の設置理由(延焼防止はともかく)とほとんどかわるところがない。郡を割いて国を立てるか、郡郷の境界に倉を設けるかは、じつは紙一重の違いであったことを知る。「国」は、こうした手直しを繰り返えしながら行政区画として練り上げられて行ったのである。
http://www.japanknowledge.com/contents/journal/howtoread/howto_01.html
年貢米が村単位ではなく、郷蔵組という地区単位で納入される事もあった様です。千々石村には6棟があったとのこと。もしかしたら名単位で納入されたという事はなかったのでしょうか。貴重な年貢米の貯蔵のため瓦葺きで作られていました。周囲が藁葺きの中に6棟の瓦葺き屋根はさぞ目立った事でしょう。
年貢米の保管中は、村役人が管理し、村の住民等が交代で夜間は畳敷の小部屋に2人1組で泊まりこみ、夜番をしました。
http://chijiwa.ne.jp/yaboo/siseki/19_gokura.html
郷倉は、原則的に村(郷)ごとに設置され、収穫期になると前年までの分を詰め替え、その年の貯穀分を加えた。その年の貯穀分は、普通1戸に付き、稗3升程とされた。これを、飢饉・災害の際に放出し、困窮した農民を救済することにした。
その反面、村内の干俣村では、郷倉を設置していながら、天保7年の飢饉の際、困窮した農民が、夜逃げ同様に離村し、天保6年の家数百軒余り、人数580余人が、天保9年には家数61軒、人数346人と激減したとする事実がある。
http://kazeno.info/matushima/21-bunka/021.htm
南相馬市の深野(ふこうの)の豪倉は郷倉でありこの郷倉は郷ごとに置かれたとなると数の多いものであった。それは年貢を治める場所だから保管する場所だから村で自立的に備えたものとも違っていた。相馬藩などでも天明とかの飢饉で大被害がありその後に藩でその飢饉の備えのために作った。
この郷倉がすでに795年とかに由来するものだとするとこれもずいぶん古いものだと思った。倉は確かに街では延焼防止の役割を果たしていた。国の境界に倉を建てるというのも一つの関所の感覚があったのか?
倉、蔵とつく地名は多い、地形的なものが多いが相馬市の山上の物倉という地名は何なのだろうか?蔵にはもともといろいろな役割が昔はあったのである。
今なぜこの郷倉に注目したのかというとこの辺の津浪や原発事故でこの辺が様々な苦難を強いられたためである。それはここだけではない、津浪の被害は東北の海岸線に大被害をもたらした。一時は外から物資が入らず困窮した。停電して水道も断たれた所も多々あった。その時、裏山の水を利用して薪を利用して煮炊きをして難を逃れた人たちがいた。
水も老人が歩いて運んでいたのである。車もガソリンがないと動かなくなるからだ。
南相馬市では市長がyutubeで外から物資が入らないと訴えて世界中で有名になったのは知られている。原発事故で放射能を一時恐れられて車で入って来なくなったのだ。
車社会でも災害時は役に立たなくなることが証明された。ガソリン不足はその後も一カ月くらいつづいたからだ。その時貯えてあるもので生活する他なかった。
自分の家では二週間分くらいの米が偶然にあったので電気も通っていたので煮炊きできた。ガスもあったから料理もできた。ただノリがあったのでオカズはそれくらいだった。
でも米さえあれば二週間くらいはしのげるものだと思った。
それでも電気とか水道が断たれればどうしていいかわからなくなったろう。
その後米はなくなったがその時鹿島区では古米が配られたのである。
その時助かったなと思った。米も切れていたし買うこともできなくなっていたからだ。
その後相馬市の方はスーバーもはじまり自転車で買いに行き楽になった。
その時はまだ車はガソリン不足で苦労していた。
現代のような便利な社会はかえって災害には弱い、電気や水道がたたればお手上げになる。でも災害時にはそうなるのが見えている。だから燃料の備蓄用として電気やガソリンや石油は使えないから危険なのである。むしろ薪とか炭とかを用意していなければならないかもしれない、そのことから一体農業とかでも減反政策とかでやる気がなくなり衰退産業になった。でも農林漁業のもっている意味はそれだけでなかった。
現代社会でもそれは郷倉の意味があったのである。
緊急時に災害に備えるものとしての意味があった。
国全体でも緊急時のために戦争でもあれば食料は入ってこないから備える必要がある。
そういうものとして農業などを保護してきたのである。
つまり現代では農林漁業などのもっている意味は価値は別なものとなっていたのである。
例えばこういう津浪や原発事故になったとき、外部からすべて頼るようになったときこの辺ではどうなってしまったのか?もう農家でも漁師でも一切の食料を自給できないのである。ただ外部から入ってくるものがすべてである。広域社会だから金さえあれば一応食料は入ってくるから騒乱にはならずにすんでいる。でも農家でも漁師でも自分で食料がまかなえないから悔しいというのもわかる。その時頼りになるのは補償金だけになった。
外部に頼ることが多ければ金の力も大きくなるのである。
でも金だけではまかなえないものもあった。この辺では時給を高くしても働く人がいないのである。他でも人手不足で工事関係ができないということも起きている。
若い人が流出してそうなった。みんな外部のものが頼りとなってしまったのである。
郷倉というのが古代からあったのには驚いた。ただ役目が変わっていったように何でも同じ名でも社会が変わるからその役割も変わってくるのが社会である。
郷倉は今では市町村単位で県単位で国単位のものとなっている。備蓄は必ず必要だからである。でも郷倉だけでは大飢饉になったときはその役割も果たせなかった。
郷倉がどれだけ役に立ったかはわからない、それは一部のわずかのものであったかもしれない、それでもこれだけ全国に地名として残っているのだからその役割はあった。
ともかく農業は金にならないから跡継ぎがないとか衰退した。でも農業の役割は別な所にもあった。それは自然を活かす自然を維持するということにも景観維持とかにもあり何より郷倉的役割に変化していたのである。外国からいくらでも食料が入ってくるといっても何かあれば入って来ない、その時食料を自前で供給できなければ国自体も他国に支配されることになるのだ。ベトナム戦争でベトコンが抵抗できたのはタロイモとかを常に供給できるか環境にあったからなのだ。南国ではイモが主食になり成長が早いから地下でこもっていても食料があったから抵抗できたのである。食料がなければ簡単にアメリカ軍に支配されていたのである。
いづれにしろこの辺では原発事故で放射能汚染で農業も漁業も林業すらだめにされた。
するともう何も自給できない、ただ補償金だけが頼りになる。そういう状態がいかに危険なものか?現実に金があっても金が役に立たない状態が一カ月くらいつづいたのである。
その時金より郷倉に貯えてある古米でも命をつなぐことができた。金を貯えていても何の役にもたたない状態だったのである。それは東京辺りでもそうなる。金がいくらあっても緊急時には役たたない、現物の方が価値がでてくる。だからそういうときは米があれば金がある人は金をいくらだしても買うとかなる。でなければ飢え死にしてしまうからである。それは短期的にそうなったが長期的になると今度は外国から入らないから国の食料が頼りになるのだ。それがなくなったら国自体が滅亡するのである。
そういう役割としての農業の維持も見直されるべきなのである。
だからTPPは危険な要素がある。食料の自由競争化だから自国の農業が壊滅するかもしれないからだ。
この辺では農地が放射能汚染で使えない、これは一体何なのだろうとその場にいるから考えざるをえない。農地が使えない、魚もとれない、木材も使えないというのは実際は恐ろしいことではないか?原発事故周辺でそう感じたことは国レベルのことでも同じである。
農地が使えない使わないということはそういう危機感をひしひしと感じるのである。
つまり原発事故の恐ろしさはそうした農業漁業林業とかの基本産業を壊滅させたことだったのである。水さえ汚染されたのだからもう生活すらできず避難する他なくなったのである。