2007年12月17日

佐世保・銃乱射事件はなぜ-原因は焦燥感 (ニ−ト、フリ−タ−の時代)


佐世保・銃乱射事件はなぜ-原因は焦燥感

(ニ−ト、フリ−タ−の時代)
 
●社会からはずれる若者の一般化
 
この事件の原因は不可解である。でもこの人の心理は理解できる。この人の経歴は介護士をやめて三七才まで仕事をしていない、介護士も看護師の補助で軽く扱われているとか介護士自体まだ看護師のように社会では認められた職業ではない、アルバイトの土方作業で誰でもできるとかくらいの認識がないし給料も安い。介護士は仕事としては低く見られている。ただこの人は親が裕福で金銭的には不自由がなく贅沢していた。ニ−トでもフリ−タ−でも貧乏な人もいるけどそういう気ままな暮らしでも親が援助してくれるから生活はできる時代なのである。だからこそニ−ト、フリ−タ−が一般化している。田舎でもどこにでもそういう人たちかなりの数いるしむしろ一時的にでもニ−ト、フリ−タ−時代がない人はいないくらいの時代なのだ。これが団塊の世代だとたいがい学生で自由な生活しても必ず会社に就職して会社人間になっていった。そこからはずれる人はまれだったのだ。
 

なんか親に「お前はどうして他の人みたいに結婚して家庭がもてないんだ」
とかネチネチ言われてたらしいな


5〜6年交流がなかった友人(知人というべきか)にも声をかけていたらしい。
そんな事を考えると、「寂しいから好きな人間を道連れ」ではなく、
「自分より充実しているように見えた人間が、憎くてしょうがなかった」に
思える。


道連れじゃないのかねー。
親友は幸せそうなのに、自分は被差別層。遊びに行くたびに違いを思い知らされる。
親友はかばってくれるけど、奥さんや子供からは変なおじさん扱い。
親には、腫れ物を触るように扱われ、なんで普通に生きられないと責められる毎日。
近所では、変な人扱い。


ただ以前として社会からはずれるとこうしたことを意識するし焦燥感をもつ、確かに生活は何不自由なくできても世間から異様な人と見られる。それはやはり変わっていなかったのだ。変わった人間が多くなれば変わった人間は変わった人でなくなる。現実社会でもそういうふうに見る。今の時代は自由に生きさせればいいし昔とは違うから個性ある生き方をするのがいいとか親の世代でも大目に見ることがある。でも学生時代から会社に正規に就職しない人は例えば海外で一年とかぶらぶらあてもなく放浪しているような青年はどうなるのか。そういう人がめずらしくもないし当たり前のようになっている時代である。そういう人はどうなるのか?そういう自由な生活を覚えたものはなかなか会社人間となりにくい、つまりそのまま自由な気ままな放浪者のような生活をつづける可能性が強いのである。日本では中途採用もむずかしいから余計そうなるのだ。現代はそういう若者が何百万人と社会にあふれているから問題になるのである。
 
●事件の原因は焦燥感(アウトサイダ−の心理と共通)
 
この事件の原因はよくわからない、私はこれを自分の人生と重ね合わせると焦燥感だというのがわかる。三七才というのもポイントである。たいがいの人は会社に入り結婚して子供もできるし家庭をもつ生活をしている。それと比べたときこの事件を起こした人はそういう友達とも女性とも親しくしていた。しかしだんだん孤立感を違和感をもつようになっていた。ニ−ト、フリ−タ−は社会から孤立することから精神に異常をきたす人もでてくる。アウトサイダ−化することはそれは宗教とか芸術の世界に没入することだがそれらは極めてまれな人たちだった。一握りの人であり特殊な人として社会の一般的な問題として扱うことはなかった。西行であれ芭蕉であれ一茶であれ山頭火であれ放哉であれ・・・そういうアウトサイダ−が一般化する当たり前となった現象としてニ−ト、フリ−タ問題がでてきたのだ。社会にとっては非生産的な人間であるからアウトサイダ−として異端視したのである。
 
一般的には会社に就職して家業についてとか結婚して家庭をもつというのが正規のル−トである。それからはずれる人が大量にでてきたのが現代のニ−ト、フリ−タ−の問題である。だからそこには西行とか芭蕉でも一茶とか山頭火と同じ心境になっているのだ。でもアウトサイダ−と言ってもそういうふうになる人は少ない、その前に精神的葛藤があり焦燥感が大きくなり問題を起こすことになる。アウトサイダ−というときそれは例えば上野霄里氏であれ他の芸術的天才であれ優れた人でないとなれないものだった。小人にはなれないのがアウトサイダ−だった。
「小人閑居すれば不善を成す」となるのも普通であり小人が大勢閑居する時代は不善を成す若者も増えてくるのは当然である。自分も小人なる故に不善を成したのである。ニ−ト、フリ−タ−にはそういう突発的な事件を起こす割合がふえてくる。焦燥感が限界に達したときこうした事件が起こすことがふえてくる。アウトサイダ−化が一般化、大衆化したという問題がこのようなニ−ト、フリ−タ−が起こす事件の深層にあった。

 ニ−ト、フリ−タ−は高等遊民なのか?
http://musubu.jp/jijimondai23.htm#koutou
 
キ-ワ-ドでも「高等遊民」で来る人がいる。これも時代である。特殊な問題ではなく一般人が高等遊民化しているからそうなるのだ。若いときから高等遊民を目指すなどと公言している若者はいなかった。こんなことを公言できくこと自体が時代を象徴しているのだ。
posted by 老鶯 at 11:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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