2007年12月14日

年の暮(遠さの感覚)


山茶花の白と赤咲く隣り合う垣根や静か夕暮れにけり

小宮へと分かれし道や久しくも我は行かずに年の暮れなむ


飯館村の道が三つに分かれたところから一つは「小宮」に行くが最近そっちの方に行っていてい、行けなくなったのだ。時間の余裕がないから行けない、前だったら暗くなっても行っていた。今は本当に行けないというショックである。日が短かったら余計にそうである。この別れ道が印象に残るのは昔からそうだった。「分去」(わかれさり)と地名化するのを実感する。人が分かれ去ってゆく場所だから記憶に残される場所となる。その場所で分かれてなかなか会えない、二度と会えない場所でもあるからそうなる。今は車の時代だからそんなことはない、そういう情緒がなくなったのだ。道は遠くと結びつくものであり人と人が分かれを惜しむような道ではない、常に遠くへ遠くへと結びつく道なのである。
 
たれすみて宿の梢とながむらん時雨にくもる遠(をち)の山もと(正治初度百首)
 
昔の俳句でも短歌でも理解するとき想像するとき必ず距離の感覚なのである。向こう方に誰が住んでいるのだろう?時雨を梢にながめているのだろうと思うのはそこは近くても歩いてゆくから遠い場所なのである。そこにはなかなか行けない場所だから常にこういう感覚の俳句や短歌になる。この道を分かれて誰が住んでいるのだろうとやはり自転車でも思うから車で移動している人にはわからない感覚なのである。
 
飯館村のアグリという喫茶店でも遠くから郡山からきた人が二組いたし遠くからの客が多いのである。道は本来は近くを結びつけるものだった。それが遠くへ遠くへと道は延伸されて遠く人、物を運ぶ道になったのである。常磐高速道路もまさに遠くと東京と結びつけるものである。高速道路がかえって都会から田舎ではなく田舎から都会と人が流れてゆくというのも皮肉である。今日のNHKの地方の活性化にはどうすればいいのかと特集でやっていたが気になったのは相馬地域は20年後が衰退する青色になっていたことである。福島県は会津があり広いから経済もいちがいに言えない、浜通りは工場も結構あるからそうならないと思っていた。光ファイバ−もできるしデジタル放送もはじまったとか都会と通信インフラでは進んでいるのだ。宮城県はやはり仙台があるから経済的にもいいしこの辺からもかなり通勤している。仙台に人も経済も集中してくるのはやむをえない、ここは仙台が近いのだから仙台があることで多少助かっているかもしれない、ともかく今年も終わりつつある。
 
二年間は認知症の介護に追われたし他のことにも力が入らなかった。30年間の自由から全く自由のない世界に一転したことはショックである。結局自由も自由を与えられるか自由だったのである。ニ−トでもフリ−タ−でも確かに自由を求めてそうなったのだが確実に最後は自分のように全く自由のない生活が待っている。そんなに自由がいつまでも与えられ続けることはありえないからだ。若いとき不規則なニ−ト、フリ−タ−は
 そのまま一生そうなりやすいのだ。若いときだけであとは真面目に勤めるようになるとはならない、。

一端社会の正規のル−トからはずれたものは日本では中途採用がむずかしいからそのまま不規則な労働者になってぬけられない、一生フリ−タ−になるかもしれない、すると膨大な人がフリ−タ−のまま老齢化する。これも今までにはない社会現象なのである。

人生帳尻があうようにできているよ
これからながい人生を幸子はどう生きていくのかな


人生帳尻があうようにできている・・・・30年間の自由から一転して全くの不自由となるのだから帳尻があっているともなる。でも一日も自由がなくなることは一番辛い、それは予想もしなかったことであった。


 

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