冬紅葉
(昔を語るには同年代がいい-田舎的な素朴な人は今ではめずらしい?)
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玄関に蛹や隠れ家籠もる
陽のさして冬の紅葉の映えにけり今一時の美しさかな
ふるさとに枯れにし菊のあわれかな苦労を語り老いし女(ひと)かな
故郷に小さき畑耕せる人を知るかな冬の日さして今日も暮れにき
故郷の訛りに通じ冬の日や昔を語り今日も過ぎにき
白鳥の四五羽群れつつ浮かび映ゆ月の光に冷えにけるかな
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今年は今が紅葉なのか?冬紅葉とは写真は違うように見える。この紅葉がきれいにとれたのは日がさして裏側からとったからだった。写真は撮り方で違ってくる。
冬紅葉となると何かもっと地味である。
二本(ふたもと)の樹の家となるのだろうか?あの家は二本の樹が目立つ、これは津浪で家が流されて残った樹も二本のがありそれが離れがたくあると写真などで解説した。詩にもした。つまり津浪で流される前はこんな感じだったのである。
変わらないものとしてある。その変わらないものが今やいいとなる。何か毎日見ていても飽きないものがある。この辺は変わりすぎたから余計そうなる。変わることがみんないいことではない、ただ年になるとどうしても保守的になるのだ。
俳句と短歌では感じが違ってくる。俳句の方が簡潔で力強いということがある。
今日も来たのは六三歳くらいだけどふけてみえる女性だった。なんかかかわるようになった。一方的に今は世話するだけだけど家族もいないから今や何かあったとき恐怖になった。それで一方的でも世話していれば助けてもらえるとか思うようになった。
ただその女性は今ではめずらしいかもしれない、質素であり素朴である。
農家の出だから畑を作っていてくわしい。
やはりあの年だとなまりがあるし何か田舎的なのである。
今田舎でも若い人、五〇代くらいでもきれいな標準語をしゃべる。
どうも六〇代くらいまでがなんとか古いものがそなわっている世代になる。
団塊の世代になるがやはりまだまだそういう古いタイプの人間がまだいる。
一般的にいなくなっているから稀少なのかもしれない。
ただ話が合うという時、戦後すぐに生れた人は前にも書いたけど江戸時代の生活のつづきだったのである。
今のような豊かな生活はなにもない、水道もなかった。水は近くから井戸水をもらっていた。それでその水を子供の頃バケツで運んだ。そのことを小学生の文集に書いた。
その女性は農家の出だからまた話は違っているが貧乏なこと何もないとういことなど
共通していたのである。だから話があうということがある。
何か田舎的なものを色濃く残しているから今や田舎でもめずらしいとなる。
なまりが今は六〇代でも消えている。標準語を話す人が多いのである。
玄関の樹に蛹を見つけた。なんかこの頃忙しくて相馬市にも何カ月も行っていない。
生け花の方もやれない、昨夜は家事の残業だった。家事をしていると時間を使う。
料理していたらまず一時間以上軽くかかる。だから買ったものですましている。
時間がたちまちすぎてしまう。すると書くこと
ができなくなる。
買い物だけでも時間がかかるのである。
でも震災のとき、方言でなまりでしゃべりあったとき励まされたとかの放送があった。
訛りにはなにかその土地の素朴なものを土の匂いのようなものを感じる。
そもそもその女性は農家の出であり土の匂いがする。
前の女性はハデすぎたのである。とても六〇代には見えない女性だった。
だからむしろ田舎的な素朴な男性でも女性でも少なくなっているのが現代なのである。
白鳥も来て川に浮かんでいるから冬らしい冬になっている。