2006年06月08日

夏草(墓は記録である−歴史は記録である)

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夏草や埋もる明治の小さき墓

夏草に埋もれし墓は明治かな

墓おおう夏草刈りて隣なる明治の小さき埋もる墓見ゆ


墓をおおっていたのは太い茎の葉で隣から繁っておおっていた。隣が無縁仏のようにお参りすることもない墓だった。その葉陰に隠れるようにあったのが小さな塚で二人の名前が書いてあった、信女、もう一つは戒名ではない、名前だけなのか男であることは間違いない、この二人の関係は夫婦なのか不明である。たいがい墓から知れることは時代と年齢と名前くらいであとはわからないのだ。そして江戸時代のものは極めてまれなのだ。

西山家(仮名)の墓は複雑である。父母が埋まっている。そのあとに妾になった女性が埋まっているし兄弟で肺結核で死んだ早死にした人と交通事故で40歳で死んだ兄が埋まっている。兵太郎とかトラとかいう名前も昔を語っている。

いまさらに40で死すは若きかな夏草しげる墓を掃除するかな

墓というのは何のためにあるのかというと供養のためにもあるが記録のためにもある。時間がたつとそんな人がいたのかまで本当にわからなくなる。墓に記された名前を見てこういう人がいたということを確認する。寺は江戸時代は戸籍係であった。それが現代に継続している。でも戒名は今や意味がないのだ。名前の方が重要だから戒名は何の意味もない、記録としても意味がないのだ。戒名見てもその人なりのことはわからないからだ。記憶ができなくなる認知症のことを語りつづけてきたが記憶とはまさに歴史である。歴史は要するに何々があったとかこういう人物がいたとかという記録することが最初だった。その記録にあたって文字のない時代は最初語り部が伝えた。それから文字が作られ文字に記されるようになったのだ。文字に記されると永続性のある記録となったのだ。

記憶がなくなることは共有した体験とかが喪失することで深刻である。記憶が喪失するアルツハイマ−などの病気の映画やその他数がふえたのでいろいろ語られるようになった。記憶は愛し合う夫婦だったら愛の記憶を共有することによって歴史を共有することによって成立する。その共有する記憶が喪失するとなると夫婦であれ家族であれ歴史を共有できなくなるから深刻なのである。部族であれそこから発展した国家であれ共有する記憶があって民族が成り立っている。それが日本だったら古事記とかになる。それは日本民族が共有する記憶なのである。つまり記憶が喪失するということは日本民族として共有するものを喪失してしまうことになる。それは日本人でなくなることに通じているのだ。

ともかくちょうど墓の側面に一行分−死者の名前が記される余白が残っていた。あそこに死者の名前が記される。でもそのあとは西山家の墓はあとを継ぐ人がいなくなるので困る。墓参りする人はいるから草ぼうぼうになることはない、でも西山家は無縁仏になるのかもしれない・・・そういう無縁仏が小子高齢化社会でふえてくるから困るのだ。

一行の残る余白に名を記し西山家は絶えにけるらむ

結局この残った一行に記すだけの人生だったのか?
人生の記し−記されるの一行だけだということはありふれたことなのである。
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