松杉の上野を出れば師走かな−長谷川馬光
上野の地名は江戸時代初期,伊賀上野の大名・藤堂高虎の屋敷があったことに由来する。寛永元(1624)年,江戸城鬼門を守る寛永寺*1が徳川将軍家の菩提寺として建立された。江戸時代は門前町として栄えたが,慶応4(1868)年4月,上野寛永寺は彰義隊の拠点となり,5月15日未明,新政府軍の総攻撃を受ける。これが「上野戦争」である。明治5年,荒廃した上野に日本初の公園*2が作られ,上野の核となった。
上野公園制定 (明治6年)
明治維新後、上野の寛永寺は戊辰戦争で全焼し、荒れ果てていた。東京都の管理下に置かれたが、木を切り倒して茶畑や桑畑にしたり、不忍池を埋めて水田にしようという案があるほどだった。そこで文部省がここに医学校と病院を建てる計画を決めた。ところが、ちょうどその頃、上野を訪れる機会のあったオランダの医師ボードインが、まだ十分に残っていた上野の山の自然を見て、いくら学校や病院のためとはいえ、これだけ見事な自然を損なうのはもったいない、これは将来のためにも公園として残すべきだ。と進言して、すでに始まっていた病院の基礎工事は中止されることになった。
この句を理解するのにはまず上野の歴史を知らねばならない、江戸時代の上野は淋しい自然の森だった。今の東京と江戸時代は余りにも景観が違いすぎる。江戸時代の人が今の東京にきたら一体どこに来たのかも見当つかないだろう。どうしたら江戸時代を知り得るのか、当時の景観が浮かび上がってくるのか、その一つに江戸時代に残された俳句があったのだ。「松杉の上野を出れば師走かな」−長谷川馬光」これは松と杉におおわれて人もいない上野の森があったからこそである。上野は今や年中師走である。今はイラン人が一時いたり中国人は今や必ず出会うしアルゼンチンから来ていた夫婦もいた。東京の一割は今や外国人と言う時代になっているのかもしれない、「なまりなつかし上野駅・・・」は明治だった。その後もそれはつづいたし集団就職時代があり大量の東北人が東京に移り住んだし東北の出稼ぎの人たちも上野に着いた。上野は東北人にとっては親しい場所だった。
これだけ見事な自然を損なうのはもったいない、これは将来のためにも公園として残すべきだ。と進言して、すでに始まっていた病院の基礎工事は中止されることになった。
上野の森も破壊され建物だけになっていたかもしれない、それを止めたのは日本人ではなく外国人だった。外国人の方が自然の大切さを知っていた。公園を街に作っていたからそこから発想した。その時公園というのは日本にはなかった。ここに徳川時代の名残として東照宮があるのも歴史を示している。徳川方の彰義隊がここで最後の奮戦した。上野は今は花見の場所として貴重である。花見のことでは「花の雲・・・」で書いたが上野には自然の森があったのだから寺が集まっていた地域でもあり森もあって景観を作っていたのだ。その森を出るとにぎやかな師走の街にすぐに出たのである。松杉の森の中にいればそこににぎやかな人間の声は聞こえない深い森だったのである。明治神宮の森もそれとにていた。江戸のような街中に自然の森があることは貴重である。今は代々木の明治神宮がその森になっている。
京都や大坂、長崎でも幕府による時の鐘は一つだけで、ひとつの都市で複数の鐘を用いて同時に時刻を知らせる例は江戸だけだ。
鐘が二つ同時に聞こえることもあった。いかにも栄えた江戸らしいとなり芭蕉の句をさらに深く鑑賞できる。江戸時代の俳句はいかにその背景が大事であり背景を知らないと鑑賞できないのである。