2013年12月05日

人間の運命はやはり運が作用しているのか? (病院で赤ん坊かとり違いられて貧乏の一生)


人間の運命はやはり運が作用しているのか?


(病院で赤ん坊がとり違いられて貧乏の一生)


60年前に生まれた東京の男性について、東京地方裁判所はDNA鑑定の結果から病院で別の赤ちゃんと取り違えられたと認めたうえで、「経済的に恵まれたはずだったのに貧しい家庭で苦労を重ねた」として病院側に3800万円の支払いを命じる判決を言い渡しました。


これも不運といえば不運であり病院の責任はまねがれられない。でももう金で過ぎた人生を返してくれと言って無理だろう。そもそも人間の時間は老人になると誰でも否応なく知らしめられる。時間は金で買えないしどんなことしても帰ってこない厳粛さがある。
そして人生は一度切りなのである。

もはやともかく病院で取り違いられても病院に責任があってもあとの祭りである。いくら金をもらっても時間はもどってこないし、時間だけは金で買えない、血のつながりがあった兄弟だと言っても実際は普通は兄弟として費やした時間の方が兄弟を決める。
一緒に過ごさなかったら家族という感覚が起きない、生みの親より育ての親の方が親なのが普通である。子供にしろ育てられなかったら親とは思えないし逆に親にしても子供として育てなければまた子供とも思えないのが普通である。

確かに血縁になると親と子になるといろんな面で性格でも似ている。でも愛情は別である。性格でもにていなくても愛情があって育てられ愛情を注いだから子供になる。
だから全然知らない人をこの人が親だと言っても兄弟だと言ってもそうはならないのが普通である。

この問題は財産がからんでいて複雑になっている。
財産かからむと真実が見えなくなるだ。
自分も身内の介護とか自分自身も病気になり辛酸をなめた。
その時何か口だけで愛情を盛んに言う遠い親戚がいたか全くの金目当てだった。
宝くじであたったりすると遠い知らない親戚すら寄ってくるというのは本当である。
いくら口で言ってもただ金が欲しいだけであり金もらえば関係ないとなる。
それが金がからんでいると見えなくなるのだ。
この問題にも確かに金がからんで複雑になっているのだ。


人間は結局は運の作用が大きい、病院で取り違いられたのは病院のミスでもただ運が悪かったとしか言いようがない、ある人は子供の時に捨てられたけど金持ちの人に拾われて恵まれて育ったとか昔も今もある話である。それはただ運が作用していたのである。
人権の運命はまさに運の作用が大きいのである。いくら努力しても運作用がなければ金持ちになれないということもある。そもそも金持ちは一代でなるのはむずかしい。
親の代で土地かあり家がありとなれば金もたまりやすいけど一から始めればたまりにくいのである。だから財産は豊かになるには三代くらい必要になるのだ。


大きく歴史をみてもモーゼが拾われたのはエジプトの貴族の女性だった。それは神が関与したということになっている。人間の運命は何か謎であり不可解である。だから神が関与したとか思うようになる。家系などもまたそういういい運を引き継ぐものがあり悪い運をカルマを引き継ぐ家系がある。時代的にも戦争の時生れた人は時代的最大の不運だった。才能ある人も発揮できず若くして死んだし肺病などでも死んだ。それは時代がそうだったからである。自分にしても体が弱くてもこれまで生きてこられたのは運であり時代が良かったからだとなる。時代のいい面の恩恵を受けたためなのである。


歴史的瞬間とういか時代を分けるもの運が作用している。信長だっていちかばちかの桶狭間の勝負に出て勝った。ただ何かの調子で天候の作用などでも負けることがあった。
天候も味方すれば運であり悪く作用すれば運が悪かったとなる。津浪でも生きた人と死んだ人がいてそれも運がいい人と悪かった人がいて生死を分けた。偶然に津浪の時家にいなかった人は助かったし偶然に遠くから海岸に来てそこに住んでいなくても津浪にあって死んだ人もいる。これは明らかに運が悪かったとなる。
ただ津浪の場合は警戒しないということが被害を大きくしたのだからすべてが運ではかたづけられない。ただそこでも運不運はあった。


ともかく貧乏で男の親が二歳で死んで生活保護になって育てられたというのは不運であった。でもその頃まだそうした貧乏の人は多かった。でもずいぶん不遇だったことは言える。自分の血縁にもそういうことがあった。一人は事故で死んだ。でもその不運はすべてが運ではなく借金したりと自分で招いた不運でもあった。自分だって恵まれてもある時、死ぬことが確実にありえた。アルバイトしたとき、工事現場で高い足場で仕事していて下に落ちるところだっ。ビルだから落ちたら確実に死んでいた。そのことをふりかえると今でも恐怖である。だからアルバイトでアンテナを建てる仕事していた人が死んだとかあった。屋根から落ちて死ぬ人は結構ある。だからアルバイトなどでそんな危険なことはやるべきではない、慣れた人はそうはならないのが普通だからである。
だから自分もいくら恵まれていてもやはり運があって生き残ったということはあるのだ。

いづれにしろその貧乏くじを引いてしまった人はもうその一生は過ごした時間にあり兄弟でも家族でも一緒に過ごした時間の中で育まれたのが家族でありまたその人の過ごした時間によってその人の一生も決まる。何に費やしたか誰と費やしたかその過ごした時間が人生なのである。故郷だったらそこに長く生活したから故郷でありその費やした時間が故郷となっている。いくら生れた場所でも他に移って過ごす時間が長くなればそこが故郷になる。だから時間ほど人生で大事なものはない、そして時間は誰でもある人が特別長く与えられたりしない、平等にしか与えられない、長生きしたものは確かに時間を長くもちえたのだからそれだけ生きたともなる。でも時間を特別長くをすることはできない、誰も200歳までは生きられないからだ。いくら金があっても何かに誰かと費やす時間は限られているのだ。だからいくら貧乏でもその一生はその貧乏で暮らした人生がそれなりの人生だったとなってしまう。それをとりかえそうとしてもできない、時間はとりもどせないからである。


ただ人間はすべてが生まれとか育った環境とかで決められるということもない、信長だって圧倒的な多数の敵を前にしていちかばちかの賭をしなかったらあそこまで成らなかった。それは普通の平凡な人でもそういうことが必ずある。何か人生の岐路にたたされる。
その時いちかはちかの決断をしてそれが成功につながったという経験をもっている人はかなりいる。経営者などには多いだろう。そこにも運が作用しているのである。

posted by 老鶯 at 15:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層
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