金閣に寒椿の赤さかな
金閣に誰が入るや松に雪
金閣を写して時すぐ冬の池
金閣の鳳凰に朝日凍る池
金閣や口を閉ざさせ冬に映ゆ
金閣に仕ふや冬の松と松
松風や金閣暮れて冬の星
金閣や夕日に光り京の冬
将軍に鳳凰の夢冬の京
金閣を残し急逝す冬の京
庭石も黄金(キン)に輝く冬の京
金閣の魅力はまさにゴールデンタイムを演出する。刻々自然の中で変容して限りない美を現している。つまり自然の中に黄金が映えているからその自然の中で変化するから魅力を作り出している。背景の常磐木の松の緑にも常に映えているし凍った池にも映えているし写真はいろいろある。常に違ったように見えるのである。その美は女性だったら衰えるがこの金閣は衰えることがないのである。だから金閣に魅せられるということがある。
京都だからその背景には複雑な歴史が人間模様も織りなされている。
千年の都は未だにこうして美を残して色あせないのである。
平泉の金閣寺はこうして自然に映えないから何かものたりないものとして不満が残る。
それはまた違った美にしてもやはり美を作り出しているのが自然だということがわかる。冬の京都なども趣深いだろう。ただ最近京都は外人でも観光客が増えすぎると情緒がなくなる。修学旅行生もうるさいか京都の情緒を乱しているのだ。
そもそも京都はちょっと行ったくらいではわからないところだった。
歴史もわからないし何かわからない、金閣にしても実際は自分にしても一回くらいしか訪ねていない、それで屋根も金箔が張られていたと錯覚していたのである。
金閣寺のこけら葺き屋根
こけら葺きとは、屋根の原料となる材木を薄くそいではがしたものを
板屋根に葺いてあるものをいいます。
でもこれが金色に光っていると写真で出している人がいた。屋根は金箔にはできない、雨風ですぐ朽ちてしまうだろう。だから自分はそういうところも見ていなかった。
今まで俳句にしたりするのは想像の句だから果たして現実にそうなっているのかわからない、写生ではないから俳句ではないかもしれない、京都ではなかなか一日金閣を見わわけにもいかない、住んでいれば四季にも見れるが離れていれば金閣も見れない、でも金閣の特徴は何かイメージ化されやすい、見ていなくてもありありと浮かんでくるシンプルなのがある。だから想像でも詩を作りやすいともなる。
ただ現実に夕日に映えるのかとかここにだした俳句とは一致しないかもしれない、でも紅葉でも雪でも何か金閣に鮮やかに映える。春に行ったとき確かに赤い椿が散っていた。
その赤さも一際赤かったことを記憶している。ただそれも遠くなり明瞭に浮かんでこない。それでも金閣はイメージしやすいものだったからあとでふりかえり何か詩的なものとして創作できる。
金閣炎上とか燃やした人が実際にいたから何かその心理はわからないにしてもそれだけ金閣は美の極致のようなところがあるのは確かである。
隙のないゴールデンタイムを日々自然の中に反映しているのだ。
石まで黄金に輝くの京都だった。それがやはり千年の都の所以である。フィレンツと同じである。
とてもそれは百年とかでは作り得ないものであった。