2013年11月29日

原発避難者の帰還をはばむものは? (川内村や都路村は辺鄙な村で帰りたくなくなった)

 

原発避難者の帰還をはばむものは?

(川内村や都路村は辺鄙な村で帰りたくなくなった)

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NHKのクローズアップ現代で都路村が避難解除になるけど住民は帰らないという、その理由は何なのか?川内村でもそうだけどあの辺は相当に辺鄙な場所なのである。
川内村には行ったことないけど都路村はその地名の由来について書いたけど四方から道が通じて小さな盆地になっているような場所である。そこに350軒とか住んでいた。

都路村というと何か都というのをイメージするけど全然違ったものだった。
ただ名前だけ都路村であり華やかなのだけど実際の村は辺鄙な村であり家が集中してある場所は古道となっていた。あそこには何回か行ったけど大熊の方からかなり上ってゆく場であり郡山市からもかなり遠い場所である。買い物でも病院でも相当に不便な場所になる。なぜか都路村ということで浪江の高瀬川渓谷にゆくとこの山の向こう側が都路村だと意識したのである。でも都路村とはただ名前だけだったのである。


都路は山のかなたや久しくも訪ねゆかじも冬に入るかな


都路にはもう20年くらい行っていない、自転車でゆくとなると結構坂を上るから辛い場所である。あそこはただ名前故に覚えられる。人間は名前をまず意識する不思議があるのだ。電車の旅行でも駅名だけが記憶に残り地名に興味をもったのが自分だった。
最近読んだ中央公論の「壊死する地方都市」というなかに北海道の秘境だった雄冬のことが書いてあった。この名前も何か寒そうな感じて名前がいいのである。

ここはまず道路が通らず閉ざされた地域だった。だから海を舟で行き来していた。
日本には確かに山が多いから道を作ることは大変である。トンネルを作っても崩れてしまったとかトンネルを作る技術が日本で発達したというのもわかる。
日本という国は山か多いし坂や峠が多すぎるのだ。だから自転車旅行して歴史の紀行文を書いた人の本を読んでも日本は道を作るのが大変だった、だから海上交通の方が発達した。古代にはすでに日本海の秋田の方まで船で大和から進出している記録があるのもそのためである。その後も江戸時代にも北前船が活躍した。
また急な坂や峠が多いから車輪が発達しなかったというのもわかる。自転車の最大の難関は坂であり峠である。80キロもつづくような会津から栃木にぬける坂だってある。
だから自分は体力がないから坂では歩いていた。今は電動自転車でなんとか坂を越している。


雄冬では「小さい赤ん坊さ、熱出して、背中さおぶって山道越えて行って、赤ん坊がなかなくなったと思ったっけ背中で死んでたって、・・・

こんな話がのっている。辺鄙な所ではまずこうして死んだ人も多いだろう。それが道路ができて車社会になって助かるようになった。反面余計に過疎化したのは今度は車で遠くに行けるからそんな辺鄙な所を離れてゆく、便利なところに車で直結するから村はさびれてゆく、だからもう現代社会に日本には秘境はないというのは本当である。
この辺でも大原とか大葦などは秘境だったと書いたが今は幹線道路が福島市まで通っているからひっきりなしに車が通るからにぎやかな場所だとかえって思うのである。

結局原発事故や津浪で何か起こったのか?それはこうした辺鄙な限界集落のような所が壊滅的打撃を受けた。もともとこうした場所は生活自体が限界に達していた。便利なもきを求める現代では医者もいないし買い物も不便だとか不満が大きかったのである。
だから郡山市で買い物している女性がいたけど着るものを選んで楽しそうにしていた。
川内村でも郡山市に住んだら便利だから川内村に帰りたくなったというのもわかる。
そこに住んでいる外部の人もみん多額の補償金で働きもしない遊んで暮らしているからこんなところに棲むのは嫌になったと出て行った。

実際に大家族の人がいた。孫が三人とか7人くらいいたとしたら一人十万もらうと70万も一カ月もらう、都路村でそんな収入などありえようがないのだ。補償金をもらって便利の所で暮らしたいとなってしまう。生活するにももともと医者もいないような辺鄙な限界集落に近いのである。椎茸も作れないとかなると余計にそうである。売っても現金収入にもならない、そういうことはこの辺でも事情は違うが起きている。
南相馬市の小高区の八人家族の人が一人十万以上補償金をもらっている。その老人は毎日マグロのサシミを食べいると言っていた。金銭的にはほくほくだし便利な郡山で生活も楽だとなると帰りたくない、帰る理由もなくなる。

こういうことはここだけではない、津浪被害にあった辺鄙な零細な漁村にも起きていた。もうそこは跡継ぎもいない老人しかない漁村でありそれで特に岩手県の津浪の被害地で
官僚がそんなジジババしかいない所に金をつぎこんでもむだだという本音を言って批判された。このように津浪や原発事故はこうした限界集落的な所を壊滅させたのはその前からそういう状態にもあったのである。津浪や原発事故が致命傷にしたともなる。


南相馬市の原町区の大原のことを何回か書いたけどここもなぜか廃屋が目立つ、三軒は見たが最近また増えた。知り合った人は息子は市街で働いていて家には住んでいないでその人は猫と一緒に住んで猫のことを心配していたのである。息子は農業を継がない、大原は原町市街から一番離れた地域でも市街に車で行けるから都路村や大内村よりもいい、でも市街の方に住居を移す人はふえる。今は放射線量がそこは高いので老人しか住んでいない、鹿島にも大原の人が仮設に住んでいる。

津浪や原発事故はもともと過疎化した地域に最後の一撃を与えた。だから今回はもうそうした村々を人々は去り村は消失してしまう危機になっている。ここでは小高などは別にそうした過疎地域ではない、でも南相馬市でも山側の大原などはそういう地域だったのである。それは川内村や都路村とにていたのである。
posted by 老鶯 at 20:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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