
我が前に大輪の芍薬おおらかにこころおきなく咲きて散るかな
人生は還暦まで生きれば十分に生きたともいえる。人生がそれから20年とか長くなりすぎたから認知症などの問題が起きてきた。人間の体に限界がきて認知症になる、ボケてくる人がでてくる。高血圧とか太った人はなりやすいのだろうか?長生きしている人はやせているというから太った人は高血圧になり体の負担から認知症になりやすいのか?生活習慣病というのは確かにあるのだ。酒とかタバコを過度にすると必ず中高年、老人になると体に症状として現れる。また生活習慣病というのは体だけではないのだ。精神的な面にも現れる。生活習慣とは長年習慣として働いてきたことが習慣となるのだから働くこともやめてもその習慣は簡単には消えない、だからボケになっても長年やってきたことがボケに現れる。寝床で田植えするしぐさをしていたとか横浜で貿易の仕事をしていた人は船が来るとか徘徊していたとか水商売の女性は裸になって男を誘うしぐさをするとかそれまで習慣的にしていたことがしぐさ、行動となって現れのだ。
また性格的なものも現れる。おおらかな人はおおらかにボケるとか几帳面な人は几帳面にボケるとか乱暴な人は乱暴にボケるとかになる。公務員のような几帳面な人はボケるというがこれも同じように社会で事務をつづけていればボケないのだ。それなりに頭を使いつづけるからボケないのだ。退職して頭を使わなくなることがボケに通じている。ボケにならないためにはとにかく今までした仕事を継続することが大事だとなる。それが退職とともに途切れるからボケになってくる。趣味をやろうにも簡単にできないし仕事としてつづかないからボケの予防にはならない、医者でも病院に勤めている勤務医はボケで開業医はボケないというのは近くの人は90まで患者をみていた。そして一週間くらいであっというまに死んでしまったのだ。なんであれこうして継続して仕事していればボケにくいことは確かである。趣味と違って緊張感が継続されるからだ。
とにかく長寿社会を文明は作ったのだが長寿社会に適したものではなかった。人間は本来は自然や回りの環境と一体となって生きている総合的存在である。家族−生産−消費−遊び(祭り)も一体として存在してそれぞれがパ−トに分割されて存在しない、人間は万物の霊長というように総合するものが本来の人間なのだ。村の長老となればそれは自然の中で村の中で生きてきた知恵を蓄えた特別の存在であった。それは環境と一体化して総合的人間と化したものであり自ずと知恵あるものとして尊敬されていた。文明はあらゆるものが細分化され部品化されるからこうした総合的人間は存在しえなくなる。学問でも仕事でも無数に細分化され専門化されて全体を総合的存在は全く見えないし必要ないのである。退職するということは社会の部品としの仕事が終わる。でも部品でも仕事をそこでしてきたのだから別な部品となるわけにはいかないのだ。人間は仕事の継続が必要なのだ。それは主婦でもそうであり家事は立派な仕事だからこれを嫁に奪われた姑はボケやすいとなる。家の中でもそれなりの役割をもたされればボケないとなる。
いづれにしろ大輪の花のように咲けば人生に悔いはないだろう。生は労苦とし神に与えられたのではない、神を讃歌し神の作りし自然を讃歌するために生は人間に与えられた。だから生は本来は祝祭であり歓喜となるはずなのだ。芸術は何であれ自然の讃歌なのである。ボケというのもこれも老人性の認知症は回りがおおらかにつつみこむものでありこれを隔離して病気としていいのかという問題はある。80以上になるとこれは誰でもさけられずなりやすいからだ。ただ余り重度になるとひどいから家族でも社会でも隔離してしまう。不具なものすらもかかえこむのが本来の人間社会なのかもしれない、狂気とか不具とかは正常と言われる社会でもナチスとか宗教団体でも公然と容認されたのである。ナチスはこうした知的障害者とか様々な障害者を抹殺しようとした、正常と思えた社会こそ狂気の知的障害者だったという皮肉もあるのだ。自分たちは賢く障害者は人間のクズだから抹殺しろと言った人たちが狂気に走った。
これは明らかに人間の傲慢からきた罰だったのかもしれないのだ。ロシアの共産主義思想に逆らうものは狂気とされ牢獄に入れられ殺されたものが多い。障害者とかの差別思想はそのこと自体狂気に通じているから危険なのだ。老人は無用だ、年金泥棒だ、無用なものは早く消えろという思想も危険に通じている。それはナチスの無用なものを抹殺する危険思想に通じているし障害者が無益なものだとか人間には言えない、障害者も神が必要として社会に存在させられているかもしれないからだ。つまり人間というのは人間からの価値観だけではわからない複雑すぎるものなのだ。だから謙虚になる必要がある。一方的な見方は危険なのである。障害者は別として高齢化社会の問題は数が多すぎることにある。老人が多すぎる社会はやはり社会自体をゆがめてしまう。活力がそぎ発展すらそがれてしまう。だから高齢化社会は実際は文明によってもたらされたのだが文明にその備えがなかったことなのだ。高齢化社会は肉体年齢をのばしただけではボケがふえたりするだけで
楽園になりえない、おそらくこの世に楽園などないのだ。つまり楽園、働かなくても楽する社会だったらそこではボケてしまうという皮肉があったのである。