2007年12月12日

年の暮


張り替えぬ障子やあわれ年の暮


一日も家事休みなし年の暮

阿武隈川そいて下れば遠きかも荒浜にいず秋の暮かな
 

障子がかなり汚れているがこれはずいぶん何年も汚れたままだった。障子をはりかえるのは頼むにしても自分でやるのはめんどうである。だから放置されたままであった。それでつくづくその汚れた障子をみてその障子もあわれだと思った。そして自分もあわれだと思った。二年間家事をしてきて疲れもした。休みないから疲れるのである。
実際介護は料理とか家事の延長みたいなところあるから男は向いていない、そして男は女性のように仲間を作りにくい、女性だったら女性同士仲間を作りやすいから家のことを頼みやすくなるからだ。この句も今までからすると違って生活実感がこもっている。一茶のような句になっている。介護の重圧はそれだけ大きいのである。

阿武隈川をそって亘理から土手を自転車で下って行った。これも遠かったことを記憶している。ようやく荒浜についたがそこは今は淋しい漁村、集落であった。この短歌を作ったのはやはり体で覚えていたのだ。本当に遠いということ疲れるということが実感として残っていた。ここからさらに仙台の港までは本当に遠かった。家から80キロはあるのだから船に乗るだけで大変な距離だった。それでつくづく阿武隈川を下り荒浜から米を積み出してさらに船で江戸まで運んだ道のりの遠いこと実感したのである。川を船で下るとしても自転車は船よりはずっと早い、そうしたら船で物を運ぶということは大変なことである。川を船で運ぶことが一見楽に見えるが距離があるから大変なのである。この距離の感覚がスピ−ド時代の感覚では実感として理解することができないのである。そして旅を実りあるものにするのにはこうして体で実感として覚えさせておくことが必要なのである。ああ、あそこまで遠い道のりを行ったなと今になりつくづく思い出して作ったのである。もし車で行ったならこの短歌はできない、バイクでもできないのだ。それにしても人間は忘れやすい、一本松の短歌を出したがあれは空港に行くと思っていたが船で行くだった。仙台の港まで行くことだった。なぜなら空港なら自転車で行く必要がなかったからだ。こんなことまで間違いるのだから人間の記憶は常にあいまいになる。船と飛行機をとりちがいることは極端だからである。
 
昔なる境の松の残りしも空港へ行く夏の朝かな
 
これは空港ではなく港へ行くだったのである。
 
昔なる境の松の残りしも港へ急ぐ夏の朝かな
 
いつも12時出発だった。それでぎりぎりでまにあったりしたから自転車だと本当に遠くなるのだ。最初からその遠さを経験することになったのだ。それにしても山頭火が60才で死んだことは意外だった。あれだけの旅をする体力があったのだからそんなに早く死ぬとは思えなかった。今の年の感覚だと70才くらいになる。旅をつづけてそのつま死んだとなるからかえって良かったのかもしれない、山頭火の旅自体は凄いと思うが作品はいいと思えない、西行や芭蕉や蕪村だと作品がいいからいつまでもその作品について思いはせ新たな鑑賞が生まれる。山頭火には旅自体凄いと思っても作品を鑑賞できないから何か書くこともできないのである。
 
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