2013年11月19日

南相馬市原町区大原の斉藤茂延(しげのぶ)さん死亡 (南相馬市立病院で同室の人の思い出)


南相馬市原町区大原の斉藤茂延(しげのぶ)さん死亡

(南相馬市立病院で同室の人の思い出)

今日仮設の食堂で聞いた。あそこは大原の人がやっているということて聞いた。そしたらそこに大原出身の人がいた。斉藤さんのことを聞いたら死んだと聞いてびっくりした。
そしてその時のプログに書いたことを読み直した。病院でもプログを何回か書いてアップした。自分はその時、腎不全で緊急入院して一カ月いた。本当は二週間で退院だったか
風邪をひき四〇度の熱をだして三日寝込んだ結果、二週間退院が遅れてその時、話できたのは大原の斉藤さんだけだった。斉藤さんも最初は喉を切っていて話できなかった。
その状態をプログに書いてあった。



同室の人は最近きたのだけど息するのに苦しいし呼吸困難の様になっていた。ぜーぜーとなりそのたびに看護師を呼んでいたし看護師が絶え間なく世話していた。しゃべることが全くできなかった。よほどの重態だとみていた。ただ体はそれなりにうごいてはいた。でも今日耳鼻科で診てもらったら普通に話す様になったのには驚いた。そして今までのように苦しい状態が6カ月もつづいていたという。そんなに長く入院していたのである。それが突然耳鼻科に診てもらったらしゃべれるようになったのだから奇跡的である。自分でも突然こんなに良くなるのが信じられない、そんなに突然なおることがあることの不思議である。草刈りしていて倒れた。腸捻転になりばい菌にやられ敗血症になった。敗血症は全身がやられる危険な病気である。実際は死線をさまよってたのである。突然よくなったのではない、6カ月間治療して良くなったのである。

その人は原町の大原の人で農家の人だった。家の人がきて話していた。これまで田畑をやていたがもうやれない、草刈りもやれないと・・・・
際はだめだ、猿から猪からハクビシンから狸から農作物が食い荒らされる、猿は柿を食う、頭がいいから種をだしてくようになったとか豆の束をもっていったとか、猪もでてくる。
猪を捕らえて殺して街に売ったら警察につかまったという、鳥獣は許可がないと殺すことはできないからやっかいである。この問題はすでに人間が稲作を田を作り始めたときから始まった。縄文時代は共生していたのである。田を稲を猪が荒らすようになったとき問題が生まれたのである。稲作は自然の破壊でもあった。今でも稲作は農薬やそのほか自然破壊になっているがすでに田を作り始めたときからそうなっていたのである。


大原というとき前にも書いた。病室の窓から大原の辺りが見えるのだ。その大原の人が同じ部屋にいた
のである。それも今日六カ月間しゃべれない人がしゃべりわかったのである。


原町の病室に見ゆともる灯は大原辺り秋の夕暮


まさにこの歌のとうりに大原の人が同室にいたという不思議があった。病室では病気で親しくなりやすいからこうした話しを聞きやすいのである。



これがそのプログに書いてあった記録である。奇跡的にしゃべれるようになって話すことができた。そこで話できたのは斉藤さん一人だけだった。もう一人は重体であり浪江の人だったがその人はしゃべることも何もできない、ただやっと手をあげて妻が介護にきたときだけ手をにぎりあとは起きることもできない人だった。
だから斉藤さんとだけ話していたのである。
ちょうど三階であり南相馬市立病院はながめがよく見晴らしが良く海の方と山の方の大原の辺りが見えたのである。だから暇だから毎日その外の景色を見ていたのである。海には船が行くのが見えた。山側が暮れて秋の夕焼けに染まり写真にとった。

病院の一カ月は実に長い、病院から出れないから長いのである。だからそこに一緒にいたことは長く感じたのである。自分は病気といっても食欲はあったしどこが悪いとも感じられなかった。ただ10キロはやせていたからそれなりに悪かったのだろう。
ただ悪いと自分で感じたのは風邪をひいて40度の年を三日間だしたことであった。
その時は誰もみてもらうものもなく恐怖だった。
その時の看護師のことを覚えている。それは津浪が来る半年前のことだったのである。
それから津浪がきて原発事故になり大変な騒動になり病院も閉鎖のような状態になった。


大原に猿の出てきて柿を食い鳩は種食い秋深まりぬ

イノシシのマムシを食うと山に住む人の語りて秋深むかも
原町の病室に見ゆともる灯は大原辺り秋の夕暮
大原に昔の暮し薪を積み干し柿作り冬支度かな
大原に事故に自殺に二人死すこの世の苦ここにもあるかな
大病に大原の人生きながらふ病院に我と語りて親しも
原町や大原の方に緑濃く秋の朝の日さして明けゆく
いくたびか秋の夕焼け大原の人と見にけり病院に暮る
大原に住む農家の人ともに病室に過ごす秋の夕暮
大原に住み仕事をやめると後を心配する農家の人
大原を望みそこに住む人の秋の日晴れて病癒え帰る
大原に住む人猫を心配す病院に長く秋深まりぬ
素朴なる人の住みにき何伝ゆあとふりかえる冬のくれかな
退院の日を待ちわびて原町のともる灯見つつ秋も深まる
退院し空となるベッド看護師の何か思うや秋の夕暮



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自分は退院して斉藤さんも退院する予定になっていた。大原には猫と暮らしていて猫を心配していた。ただ街内には息子もいるし近くに娘もいたから病気でも住めたのだろう。
でもその後大原は放射線量が思った以上高く若い人はた流出して老人だけが残ったと聞いた。
ともかく斉藤さんとは病院でともに過ごしたから思い出となった。
たからまた大原をたずねて斉藤さんを偲ぶことちしよう。
大原はすでに三軒か廃屋になっているのいるのを見ている。
農業は跡継ぎがないとかいろいろ問題がありそのことを語っていた。

ともかく大原に長年暮らし住んでいた人が死んだということはやはり偲ぶことになる。
斉藤家は古い家だったとか他にも斉藤姓はある。斉藤家の本家がどこなのか分家なのかもしれない、前田という地域は古いだろう。
郷土史もそうしてある土地に長く土着的に住んで生きた人のことを語ることである。
そういう家や人はその土地と一体化しているから余計にそうなるのである。


病院にともにありし大原の人の死にしとあわれ冬のくれかな

 
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