2013年11月06日

相馬藩が中村城に移転したのは津浪の復興などと何の関係もない (当時の戦国時代の政治的事情で無視された)


相馬藩が中村城に移転したのは津浪の復興などと何の関係もない


(当時の戦国時代の政治的事情で無視された)



1611(慶長16)年12月2日、三陸沖、M8.1

さらに慶長16年(1611年)12月に宇多郡中村城に本拠を移し、ここが相馬藩の城下町となった。
治家記録慶長16年11月30日条に、この津波の到達した場所を推定できる記載がある。海に出ている間に地震発生、津波に流され、舟ごと「千貫松」に流れついた記載。

「相馬藩世紀」には相馬中村藩の領内(現在の相馬、南相馬、浪江、双葉、大熊、飯舘の各市町村)で約700人が津波で死亡したとある

400年前の津波の後、相馬中村藩は城を軸に城下を整備する都市計画を進め、商工業の振興を促したという
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2011/04/post_921.html



1611年 (慶長 16年)、相馬利胤は藩境を接する伊達政宗に備えるため相馬藩の本拠地を小高域から 中村城に移し、廃藩置県を迎えるまでの260年余りの間、相馬中村は城下町となりました。


烏帽子親であった石田三成の一字を賜って初名を三胤といったが、これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、それ以来三成と昵懇であったためであった。


三成の旗印が野馬追いに残ったのもそのためだった。


江戸に上る際に三成の偏諱をはばかって密胤と名を改め、その後さらに幕閣の実力者土井利勝の利の字を偏諱として再び改名し、利胤と名乗りを改めている。


名前も二度も変えているのである。名前は普通は簡単に変えないけどそれだけ上からの圧力が強い時代だった。この戦国時代の時は、まずどれだけ領地を守ること一族を守ることに必死になっていたかわかる。こういうとき中村城に移転したのか慶長津浪から一カ月後なのである。なぜそんな時期にわざわざ難儀な城の移転をしたのか?
それまた問題になった。これも学者が津浪の被害がありその復興のために中村城に移転したという説を出した。

これもその当時ありえないことである。まず公共事業で経済を活発化するなどという現代の感覚などゼロである。中村城移転は何ら津浪とは関係していない、伊達に備えるためだったというのがやはり正解だろう。新地が一時伊達領だったことでもわかる。
この戦国時代には領地の奪い合いなのだから領地を守るとなれば中村城が一番適地になる。それは津浪が起きたこととは何ら関係ない。

そもそも溺死者700名としか相馬藩政記に記されていないことがその証明である。
政治の中心は津浪の被害より領地を守ることに専念されていた。

そして相馬氏一族の安泰を計ることが第一である。たから家来が戦死したとかは藩政記に記されている。でも津浪で死んで被害がどうだこうだとかは全く記されていない、その時の関心は領地を守ることでありそれに必死になっていた。
その時津浪の被害も報告されたがただ溺死者700名としか記されない、もし公共事業のように中村城を移転したならもっと津浪のことについて書いている。
津浪で民が被害にあい苦しんでいる、そのために・・・と何か記しているはずである。
それがまるっきりないのである。だからむしろ津浪の被害者はこの時の政治で無視されたのである。津浪の被害は政治の最重要課題になっていないのである。
だからといって津浪の被害を受けた人たちにとって最大の問題だった。

でもその当時政治の課題は領地を守ることであり津浪の被害があってもそれは無視された。だから三カ月後に今度は徳川家康の冬の陣に大坂城に参戦している。これも津浪の被害の後にそれだけの財力があったのかと思う。今ならもう津浪の被害に政治がかかりきりなるはずだからである。つまり津浪の被害はほとんど無視されたから記録されなかったのである。もちろん津浪のために中村城に移転したということはありえない、ではなぜ津浪の被害にあった人たちの声が残されなかったのか?


これも謎なのだけど津浪の被害にあった民衆にその記録を残す力がなかったとも言える。もしかしたら被害を訴えたかもしれないけど政治の最重要課題は領地を守ることであり津浪の被害に対処できる状態ではなかった。だから無視してその財力も徳川を応援するための参戦するために使われた。つまり津浪の被害者には何ら藩では助力もしなかったともなる。それもできなかったともなる。だからそっけない一行で700人溺死としか記さなかった。その他のこと相馬藩の存続にかかわる跡継ぎ問題などは詳しく記されているからだ。
津浪のことが記されていないことは当時の相馬藩の政治事情のためでありそれで無視されて記録もされず忘れられてしまった。政治は今でも何が第一の課題か問題になる。何を優先するかが問題になる。それは必ずしも民衆をの要望を第一にするとは限らないのだ。
だから津浪で死んだ700人は当時は無視され歴史の闇に消えてしまったのである。
その消えたこと消されたことが実は大きな歴史であり意味あるものとして見直すことが必要だった。


相馬藩は歴史が古いために藩主相馬氏の蔵入地は他藩と比べて極端に少なかった。太閤検地の際の相馬氏の蔵入地は16%に過ぎなかったといわれている。実に8割以上が、藩士や寺社領であった。

このように財政基盤が弱いところに、江戸開幕後の軍役負担、中村城築城などの出費があり、たちまち財政難に陥った。つまり相馬藩は成立時から財政難に苦しめられたのである。

(戦国時代における蔵入地は、戦国大名が自己の所領のうち、家臣へ与える知行地に対して代官を派遣して直接支配を行って年貢・諸役などの徴収にあたった直轄地を指す。)
http://roadsite.road.jp/history/chishi/hanshi/mutsu-soma.html


まずこれだけ財政難なのだからそもそも津浪との被害のための復興としての公共事業などという発想すらできない、藩士や寺社領だったということは自前の財力がない、ただ藩士や寺社の領地が津浪の被害を出したら寺社でも藩士でも損害だからて何らか記録が残ったかもしれない、でも寺社にしても津浪で死んだから供養したなどない、海側が被害にあったのだからそこには自分たちの領地が少なかったのかもしれない、海側は米がとれないから漁業だけだと年貢にならない、検地もしないから記録として残りにくいということがあったかもしれない、様々な事情が重なって津浪の被害は無視されたのである。


実際に今なら津浪の被害者の名前がみんな石碑に刻まれているから忘れられることはありえないのだ。当時は津浪の被害にあった人たちはそうした石碑を残すことさえできなかった。それだけの経済力がなかった。墓を庶民が残せたのは江戸時代の後期だったのである。では伝説などで語り継がれなかったのか、それも謎なのだけどやはり津浪の被害は普通の災害とは違っている。・・・千軒とかが伝説に残されているように一瞬にして村自体が消滅するような災害である。すると村自体が消失したら歴史も記録も消えてしまうことになりかねない。例えば津浪で村自体が消失して他の村や町に移ったときそのことを語っても信じられなとならないか?みんな死んで村がなくなってしまったんだよと語っても信じられないとなり語り継がれることもなくなった。草戸千軒などはそうである。最近になって遺物が発見されてあったとなっているからだ。溺死者700人というのはそれとにて歴史から消失してしまった。しかしそのことか今になって重大なこととして蘇ったのである。その当時の記憶が同じ津浪が呼び起こされたのである。

posted by 老鶯 at 12:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/80037635
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック