名取に鯨が打ち上げられた(相馬(鹿島区)にもあった鯨の碑)
宮城県名取市の砂浜に10日朝、体長11メートルのクジラが打ち上げられた。同市によるとマッコウクジラで、昼過ぎに死亡が確認され、同日夕、砂浜に埋められた
(朝日新聞)
名取とういうとかなりここから近い、ここの鹿島区の烏浜の港にも鯨大明神という碑があるから鯨が打ちあげられてその鯨の供養のために碑を建てたのかもしれない、明らかに名取に鯨が打ち上げられたことはここでも打ち上げられることは不思議ではないと思った。現実味のある話としてこのニュ−スを聞いたのである。
東北ではまたなぜ鯨取りがそれほど盛んにならなかったかというと地形にあったということは意外だった。鯨は入江に入ってきた鯨や入江に追い込まないととれないものだった
八戸地方の漁民たちが守り神とあがめていた「八戸太郎」とよばれる大きな鯨がいた。それとおぼしき鯨を紀州の熊野浦のモリ打ち漁師が突き漁で深手を負わせる。漁師はそのたたりか同じモリで事故死する。その鯨が八戸の鮫海岸の漂着して死ぬ。死体は朽ちることなく大きな岩になり、今日まで地元漁師にまつられているという。
ここで注目すべきは熊野から来たモリ打ちが鯨取りを伝えたのである。紀州の熊野から各地に移住した人がいる。東北にも熊野神社が実に多いのだ。明治になっても鮎川に来た。熊野というと紀州だからずいぶん遠いところから来たと思うが相馬辺りでも実に「熊野神社」が多いからこうして移動してきた人がかなりいたのである。
紀州出身の鈴木重原(孫)の次男か三男が相馬の西方、熊野神社が有りました場所になる中野地区の場所の地名を取って中野と名字を名乗り、その後北畠顕家の家臣に成っていた、中野左近亮が北畠顕家の死亡の後に北畠家より離れて相馬の南方に当たる立谷部落に移り、立谷左近亮と名乗り、立谷家が生まれました。
http://blog.livedoor.jp/tachiyafamily/archives/2004-12.html
一端は中野とその土地の名を苗字にして次に日立木の立谷の地名をとって姓にした。何南北朝の時代だから北畠顕家の家臣というから相当古いことになる。熊野神社が相馬にも多いというのもうなづける。
(鯨の話−東北と関西)
http://musubu.jp/jijimondai28.htm#ku

古老の話によると、慶長津波の後に福島県相馬地方の武士であった相澤家、
大友家、柴崎家などが移住して中野集落ができたと言伝えられる。相馬の地名
にちなんで中村屋敷、吉田屋敷とよばれていた。この地は現在も住宅地である。
http://www.stks.city.sendai.jp/citizen/WebPages/wakachu/
archives/sagufuji.pdf
この津波が相当大きなもので記録に残された。津波のあとで開拓に入った。他の人も慶長津波の後に新しく開拓に入っている。名取もヌタリであり湿地帯が海の方に向かって広がっていたのだ。津波の後に伊達藩では開拓に入る人を必要とした。それで相馬藩からも呼んだとなるのか、相馬藩でも飢饉のとき人口が減り越中から人を呼んだからだ。相馬、相馬と草木もなびく・・・という民謡は相馬に人を呼ぶのために作られた。やはりよほど困っていたからそんな歌まで作ったとなる。
ここで注目したのが六郷と七郷の境にあるという一本松であった。これは境の松とはなっていないが平野のなかに一本ぽつんとあったから目立つ松だった。まさに「一本松」だった。
広瀬川が水不足になれば六郷・七郷の水争いは絶えなく,鎌や鍬等を持った大勢の農民が堰に集まり流血騒ぎになるほどの水争いとなり,死活問題でもあった
http://www.pref.miyagi.jp/sdsgsin/nn/pdf/67walk.pdf
この松はその境だとするとここを境に争いがあったとも想像される。
この写真を見比べてわかったのだ。現代はデジカメ時代は一人一人が監視カメラのようになって一地点の写真や説明をインタ−ネットに書いている。それで郷土史の研究にはかなり役立つのである。あらゆるものが情報化するのがインタ−ネットであるというとき全国の碑の場所と説明と写真が情報化されることになるようなのがインタ−ネットの情報化社会の未来なのだ。この松で奇妙なのはこの境の一本松を通って仙台空港に行ったことなのだ。境はなく空を飛んではるか沖縄や外国に行くということが今の時代を象徴している。ともかくこうして郷土史研究はインタ−ネットで役立つが編集する必要があるのだ。編集するとこのように一つの論文のようにもなるのである。つまり仙台と相馬は伊達と相馬で争っていたから関係深いからそこから郷土史への広がりでてくるのである。
昔なる境の松の残りしも空港へ行く夏の朝かな

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