2013年11月05日

なぜ相馬藩では慶長津浪が記録が皆無に近いのか? (初代の時に津浪の被害があり戦国時代で混乱していたから?)


なぜ相馬藩では慶長津浪が記録が皆無に近いのか?

(初代の時に津浪の被害があり戦国時代で混乱していたから?)

相馬藩初代となる利胤は、天正9年に相馬氏十五代相馬義胤の長男として陸奥国行方郡小高城で生まれる。
慶長元年(1596年)元服の際に父義胤は石田三成に烏帽子親を頼み、三成の一字を得て三胤と名乗る。
これは義胤が豊臣秀吉の小田原陣に参陣した際に、石田三成の取り成しで本領を安堵され、以来三成と昵懇であったためであった。


徳川家康は会津の上杉攻めに向う途中、下野小山で石田三成の挙兵を聞き兵を返す。
慶長5年(1600年)8月関ヶ原本戦で家康が勝利、この報を聞いた義胤は遅ればせながら翌慶長6年正月に上杉領であった安達郡を攻めて失敗している。


慶長7年(1602年)5月24日に関ヶ原不参により義胤は領地を没収される。このとき常陸の佐竹義宣も領地を没収されて、出羽久保田20万石に移封されたが、義胤には佐竹領のうち1万石が分与される予定であったという。

さらに慶長6年(1601年)に正室を亡くしていた密胤は、秀忠の側近土屋忠直の異父妹で旗本岡田元次の二女を正室にこ迎えた。
旗本の二女ではあったが秀忠の養女として嫁ぎ、この婚姻の仲立ちとなった土井利勝の利の字を偏諱として再び改名し、利胤と名乗りを改めた。また、徳川家と縁戚となったなったことで従四位下、大膳大夫に昇任している。

この間、慶長3年(1598年)に小高城から本拠を牛越城に移しているが、領地没収騒動を不吉として。
慶長8年(1603年)には再び小高城に戻っている。

慶長12年(1607年)江戸城普請の手伝い、慶長16年(1611年)12月には小高城から宇多郡中村城に本拠を移している。以後、ここが相馬藩の城下町となる。
利胤は宇多川の流れを変え、碁盤の目状に街割を行って城下町の形成に意を注いだが、この際に北方の伊達氏を仮想敵として考慮したという。




慶長地震の津浪が起こる前のことからたどると詳しく初代の利胤の記録が残っているのだ。この時注意しなければならないのは戦国動乱の時代であり相馬藩は初代であり安定していない。つまり政治といっても藩主の関心は戦国時代の中でどうして藩を維持するのかということが最大の関心事だった。だから石田三成が主役の時代は三成にとりいることが政治であり名前まで三成からもらっている。野馬追いの旗にも三成の旗印が残っているのもそのためである。鹿島区の田中城にも実際に三成は来ていたのである。
相馬藩の初代が戦国時代でありそこでの関心は民にはない、城も中村城に移る前は何度も移動しいる。一端中村城に移ってからも移動している。それほど安定していない、こういう中で民に気を配ることすらできないだろう。
だから記録としてはそうした戦国時代で領地をどうしたら安堵してもらえるかが政治だったのである。


さらに慶長6年(1601年)に正室を亡くしていた密胤は、秀忠の側近土屋忠直の異父妹で旗本岡田元次の二女を正室にこ迎えた


こういうことまで記録されているのになぜ700人も死んだ津浪のことか全く空白になっているのか?今の時代からすると理解できないが当時の事情からするとそうではない、相馬藩の基盤が安定していない、だから民のことはないがしろにされていた。


文禄二年に(1559)に相馬三郡の検地があった。


文禄に検地があった?とすると新地にあった文禄の碑は検地を記念したものなのか?
検地の時に記念として年号を石碑に刻む傾向はあった。明暦とか元禄とかにも検地があり葛尾村の落合にあった碑にも刻まれていたのである。その時あの辺に検地が施行ささたのかもしれない、検地の記念として年号が刻まれた。ただその時新地は相馬領になっていたのかどうか不明である。


文禄の時代でも慶長津浪の11年前にもそうした記録は正確に残っているのだ。だから慶長津浪の記録が残されないということは民の歴史を藩では行政では無視したということになる。その前に度々戦争があり戦死者150名とかも月夜畑の戦いであった。
そういう方には関心があり津浪の被害とか死者数には関心がなかった。

ただ一方でなぜ民間で津浪のことが伝承されなかったのか?
それも深い謎なのである。伝説にも残らないし都神社か津浪を記念したとしても不明となっていた。津神社がすべて津浪を記念したものとは限らないしその謂われも不明となっていたのだ。


つまり津浪に対して全く相馬藩では記録の空白地帯となっていたのである。
伊達藩では相馬藩より歴史が古く伊達政宗の活躍の時代だから慶長津浪のことは伊達藩から全国に知られるようになったのである。ただ相馬藩の津浪に関しては閑却されていた。
だから歴史の記録は必ずぬけおちるものがある。その事実もわからなくなるものが相当にある。何が事実だったのか特定して証明することが歴史研究だともなる。
ある人が存在したのか存在しなかったのかも証明することが歴史だとなる。

歴史の記録の欠落には重大なことが見逃されているということをかえって証明しているのだ。そういうことを掘り起こすことは容易ではない、柳田国男が民間の人たちから口碑として聞いたものを集めて学問にしたことでもわかる。それは文書で記録されたものに対しての反抗として生れた学問だったのである。
膨大な伝説とか民話とかそうした民間で語られたものの中にも歴史があったということである。そういう歴史は文書に残されないことで忘れられてしまった。それを掘り起こすことが学問になった。
そういう民間の歴史の消失がいかにあとで重要なものとなっていたか、津浪のことでわかったのである。柳田国男か戦争ばかりが歴史ではないというときまさにそうだったのである。ドラマでも面白いから戦争のことばかりドラマにするけど地味な民間の伝承とかは話題になりにくいから忘れられるのである。


その当時でも津浪で700人死んだということは民間人から見れば大事件だった。でも戦争に追われていたものが支配者だったとき戦争で死ぬことの方が大事件になっていた。
こういうことは歴史をふりかえるとき研究する時必ずある。
忘却された記録されない歴史の空白が実は重大なことを語っているということがあるのだ。津浪のことが伝えられない語られないということでこんなひどい被害になったともなるからだ。


ただ伊達藩の記録には名取辺りまでは濃厚に民間の伝承は伝えられていた。ただ相馬藩になると地元の人もほとんど注目していなかっのたである。伊達藩でそれだけの津浪の被害が記録されていれば相馬藩でも注目するべきだったのである。それも郷土史というと一地域の狭い範囲のことに関心が向きやすいということもある。全国的レベルで共通の課題を研究することに欠けている。そういう方法もなかった。インターネットでそういう方法が生れたことは言える。
まず郷土史研究が何か科学のように命にかかわるようなものというより好事的なものであり一般的に暇人がしていくくらいしか思われない、でも歴史の研究は民俗学であれ何か重大なものか命にかかわるものさえあったということである。
もし貞観津浪とか慶長津浪のことをもっと知っていれば海岸に接して人は住まないだろう。最近は科学で証明もされていた。それでも危機感をもちえなかった。
歴史を忘れてしまうことは常にそうした危険がある。戦争のことでもすでに何かわからないものとなっている。300万人以上死んだ戦争すらだんだん霧の中になり忘却されてゆきまた同じような戦争も起こりうるのである。


だから歴史は繰り返す、個人的にも家族的に家系でもカルマは消滅せず繰り返されるのである。カルマが何かというときそのカルマ自体が何か気付かない人が多いのである。だからカルマを繰り返しているということにもなっているからである。あなたにはこういういうカルマがありますよと指摘してもそんなこと意に介さない人が多いのである。そしてどうしてこんなに不幸なことばかり起きるのかとかばかり言っているのだ。仏法なら原因があり結果があるということでありただナムナムナムと唱えて入れは解決するとはならないのである。でもカルマを直視することは厳しいからできないということもある。ナムナムナと唱えれば何でも解決しますよと言うのが楽だから人間は楽な方に目が向いてしまうのである。そのために人間のカルマは一向に解消しないということがあるのだ。歴史もまた一つのカルマを背負っているのである。
そのカルマについて良くしらないと重大なことが見逃されてしまうのである。

posted by 老鶯 at 10:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
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