2013年11月02日

津浪原発事故より二年半過ぎしめぐる相馬の想い (文語でつづる相馬に住むものの心境)


津浪原発事故より二年半過ぎしめぐる相馬の想い


(文語でつづる相馬に住むものの心境)


秋の雨ぬれて小さき街の路地をいくつか曲がり仮設食堂に惣菜を買いにゆく、その裏方に我が知れる人の働くも今日はいでこず、小高の人の三人ばかり昼間より酒を飲む。
財布だして一万札を数える。補償金もらいしゆえに今は懐も豊かなり。
何も成すこともなく昼間より酒を飲むは楽しきや、しかあらず働くは喜びにあり
ただ毎日昼間より酒飲みて成すことなければ何故に生きるかも知らずなりぬ
そのことの心に重しもただ術もなく酒を飲む一日またすぎゆきぬ。

津浪の被害はなお深き傷跡を残しぬ。門のみ残りて家はなくなりぬ。
誰が住みしとその前にたたずみ不思議に思う。津浪原発事故より不思議に思うこと絶えぬなり。
家ある跡が草茫々となりそちこち沼となりぬ。ただ凄まじき無常の現実として日々見ゆる。

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六号線を一人の若き旅人歩むゆく、原町の方から来るに聞けば川俣から飯館を回りて来れりと千葉県の人てれど今は東京に六号線は原発事故で通じざればなり
その旅人の一人歩きつ今日は相馬市に泊まるという、芒のなびき歩み去り行けり。

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しとと雨ふり木の葉一二枚となりの庭より道に散る。この道も曲がり仮設に住む人も二年半過ぎしばし通り過ぎ行く。川の木の葉散る土手の道も踏みして歩む。
まことに世の無常やその変わりし故郷や我が家の墓地の前には復興住宅のたたむとして工事中なり。その変わりようの思いもかけぬことなり。

小高の人木の葉散りそむ土手の道踏みしめ歩み二年半すぐ


ここに数奇なる運命の人あり。常磐高速道路に土地を売り多額の金が入りしに大熊に牛の牧場をはじめしという。その人の原発事故にあいまた多額の補償金を得ることになりにし。不運なのか幸運なのか損にはあらじ。この辺では常に原発補償金が最大の話題なり。


小高の人の住み慣れし我が家を何と思わむ、月日は過ぎて二年半はたちぬ。月日は何を成すも成さざるもめぐりゆくなり。今金あるはてこれよりあるとは限らず、その金はただ一時的なものなり。土地あれば常に働けば実りあり。金は消失しやすし。さればとて今帰るせならず、津浪に家を消失せし人は帰れず、土地が手に入れずと家も建てられず、空き地に家建てる予定のあれどのびのびになる。働く人でも少なく資材も高騰して不足するとままならぬ。

土地は奪われ家は奪われ金を与えられしもその金を活用ならずば無価値なり、ただ月日は留められず過ぎてゆくなり。

社一つ淋しかな、村人帰るを待ちにしやあり、ここに人の集い祈り祭りある日を思い出すらむ。鹿島神社の欅の大木に蝉鳴く声を聞きし夏はすぎて今は秋の雨ふり時ならぬ台風のまた襲いくるかも。大島にまた大災害のあり。福島より自衛隊の恩返しと勇みい出ゆく、近くに自衛隊の人も住むなり、ここも津浪のあと自衛隊の人の働けり。

小高まで電車は来たらじ、途絶えけり、小高の駅まで津浪は越えて町中に来て泥を運こべば驚きぬるかな。小高神社はふ浮舟城といい、野馬追いの野馬掛けの神事行う神社なり。夏に尋ぬればしきり蝉はしげく鳴くなり。なおまた野には津浪に流されぬ車放置ささあり。家は空屋にていつ人の住みぬらむ。ただその小高区の区役所の天井高くガラス張りにて広々として役所の人の働ける。ボランティアの集まる家もありて復興はすすみしや、それも町中のみなりしや遅々として進まじや、秋も深まりぬ。二年の秋と春はすでに過ぎにい。


井田川の浦尻に仮設に住む人の津浪に家流されしと鹿島に住む。かの家の一週間にたつと暇なれば一日見てをり。土地が得られずに家が建てられでという。広き家に住む人の多く仮設は狭しも。盆栽を飾るはまことに日本の土地はもともと狭く耕す地も狭く海側に土地を求めて干拓せしが徒となれり。その家も狭く盆栽はその狭さ故に生まれぬ。茶室もまたおなじなり。


小高を過ぎて浪江に入るなり。街内のみ入るを許可されぬ。
幾夜橋とは和歌を学んでいた昌胤が師の中院内府通茂にみちもち)卿より贈られし


跡たへしながらもあるを幾世橋いくよ変わらずふり残るらむ


という賀歌によりこの里を泉田から幾世橋(きよはし)に変えぬ。
水増せし請戸川勢い良く流れこの橋を渡りて浪江の街中に入りぬ。

幾世橋久々に渡る秋の暮西行も来ると道は閉ざされぬ

浪江には西行の来るあおいの茎に知られるなり。


陸奥の 高瀬の清水 来て見れば あほいのくきの 下にこそあれ 西行


西行の惜しみて去るを道は通じず悲しかな。またいつの日か浜街道を旅したきを
うらむべしかな。

その請戸川に沿い上りて行けば昔の浜街道ありて一つの碑あり。
浪江に出口一里塚あり。

この付近には大出口、小出口という地名があるが、平山氏の居館と関連のある地名ならむ
地名を探ればこのような一文あり。名のある人の館ありてその出口なるゆえに名づけられしやその故しらじ、一句生まれぬ。出口とはここに館ありて出る所にて名づけらる。その館は古く1600年代よりある。浪江の歴史も古きものなり。


浜街道一里塚あり秋の暮


浜街道は余の森と相馬藩の殿様の名づけしも今は原発事故で閉ざされて通ることもならじ。余の森は夜の森となれり。双葉には昔我が父の酒屋に丁稚として働きあわれかな、日掛けの通い帳の我が家に古りて残れる。双葉の名はその頃はなく長塚駅なり、新山に城ありぬ。その城ありしところを真ん中を電車は通るも今は通らず。我が父は葛尾(かつろう)村の小出谷(こでや)出身なり。遠祖は柏原なり津島に近く江戸時代より住みしものなり。

浪江より浜街道から山を伝いて小高の上浦にいずる。そこの坂を下りてかなた秋の海の見ゆるかな、海は遠くも津浪の奥までおしよせぬ。上浦下浦とある名はかつては浦なり、ここは海より遠しもまた海は近きなり。


再び我が町の鹿島に帰れば淋しかな、十三夜の月は明るく出でて夕べ芒の映えぬ。昨日まで吹く風はやみて穏やかに一三夜の満月は明るく煌々と輝きにけるかも。
一五夜は中国より伝われと十三夜は日本のみのものにて日本の風土になじみて趣き深きものかな。

すでに津浪の災害より二年半過ぎ心も静まりつつありや十三夜の月の心にしみぬ。
ただ常磐線は原町ー相馬間の鹿島と日立木に止まるのみなり。秋の雨にふられてあわれかな。乗る人も少なく虫の音もあわれなり。我は久しくも遠くに出ることなく狭き相馬に閉ざされけるかも。江戸時代に帰りしごとくに思ふ。

相馬駅で鉄道は戸絶え桃内駅の鉄路は草に覆われていつの日や電車は来たらむ。特急スーパーヒタチは原町駅に止まりしままに二年半は過ぎにけるかも

相馬市に行けば六万石の城跡の石垣も一部崩れそのままに淋しきかな、一ひら二ひら木の葉散るらむ。松川浦は復興の気配あり。食堂の何軒か再開して宿にも泊まる人あれや、女性二人の釣りしてありぬ。神奈川より美人なりとからかい老人の旅人去りぬ。
また一人釣り人ありて今は渡り蟹というのもとれると十匹ほど網に入れてありしも。
津浪より二年は相馬市は変わらず田畑を耕作してあり。何かここには変わらぬ平和のもどりしや心なごみぬ。

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表現するとき何かを伝えるにしても写真が今は有効でも写真だけでは伝えられない、心持ちなどがなかなか伝えられない、その場所や事件でも伝えられない、そうした微妙なものを伝えるにはやはり文章が向いているし日本人なら文語が格調高く情緒的になるから明治にはこうした文語調とか漢文調の文が作られた。
今もそういう時代になった。戦争に負けてアメリカ一辺倒の世界から国風文化への回帰がはじまったのである。つまり新しい国風文化の再興が模索されはじまる。
それは物質的繁栄が高度成長が終わり二〇年が衰退期となったことでもわかる。
もう高度成長は日本には起こらないが文化の興隆は起きてくる。高齢化というのも文化の成熟には向いているからすべてが悪いとはならない、日本の成長はもはや経済的復興とかではない、文化的な復興であり精神世界の復興なのである。
だから日本の文化の伝統が新たな命を帯びて復活してくる。明治維新そのものが維新とは古いもの新しく蘇らせる意味だったのである。
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