2013年10月30日

秋の光−鴨 (俳句は写生でも背景を読まないと鑑賞できない)


秋の光−鴨

(俳句は写生でも背景を読まないと鑑賞できない)

鴨数羽秋の光に橋の下


一二羽と大きな庭に秋の蝶舞入りにつつ田舎静けし


毎日買い物で橋を通る、すると必ず橋の下に鴨が数匹浮いている。なんでもない風景だけど人間は自然であれ橋であれ道路であれ一体化してゆく、これも写生俳句そのものである。ただ日々の事実を俳句にしただけである。ただ感じたのは秋の光である。
鴨は冬の季語でも秋から鴨はいるからまぎらわしい。
写生俳句は日常のありのままをそのまま表現ふることである。
ただ写生俳句はその人の日頃の生活とかを読まないと鑑賞できない
この俳句はなにがいいんだと常になるのだ。
あまりにも日常的でありどこに深い意味があるからわからないのだ。

それはこの辺で起きて津浪という大きな異変の後に俳句や短歌にした。
つまりこの辺では津浪という激変を常に考慮しないと俳句でもわからないとなる。
御刀神社にしてもあそこが津浪で残ってということが大きな意味あるものとなった。
今まではあの神社は別にそんなふうには見ていないからだ。
だから写生でもそれだけ違ったものとなったのである。

ところどころ沼になったりまるで変化したことは写生でも驚きの世界となってしまったのである。

ともかく写生という時、奇をてらうようなことはしてはせいけない、空想で作り出してはいけない、そこが詩と違っている。だから何か平凡に見えてこれがどこが芸術なのかとなってうまう。でも橋の下というとき自分は毎日買い物に通う道でありその橋の下にいつも鴨がいるということ鴨と自分がそこで一体化しているのである。
そして秋の光がその鴨にさしている。そこに深いなごみを感じたのである。

雁は秋の季語だけで雁は何か列なして飛んでゆくのをイメージしている。
でも鴨はいつも水に浮いて同じ場所にいる。あまり飛ぶイメージがないのである。
何かいつも仲間と一緒にいて離れないという感じになる。


雪の暮鴫はもどって居るような 蕪村


この句は鴫だけど鴫はあんまり今はみかけない、くちばしが曲がって大きなのを津浪の跡の沼で見た。ただ鴫が沼に浮いているような風景は見なくなっている。
鴫そのものが見えないから鴫はなじみがない。

ただ鴨はなじみ深いのである。鴨は冬の季語でも秋でもいつもいるから秋にもふさわしいのだ。するともどっていそうなというとき何かいつも鴫をそこで見ていたのである。
たとえ飛び去っていまはいなくてももどっているように見えた。

俳句はこういうものでも深く読まない限り鑑賞できない、鴫を人間に例えるとそこにいつも見ていたものだからまたもどっているように思えた。
それはよほどこの鴫を見ていない限りそんなふうには見ないだろう。
相当にその鴫となじんでいたのである。
そういう時間感覚は江戸時代である。江戸時代の俳句でも鑑賞するには江戸時代の時間感覚とかに入らないとできない、江戸時代の時間感覚は今とはかなり違っているからだ。


蕪村が炉端の俳人で一カ所に留まって動かない人だった。そういうときこれもある所に動かないで長くいて鴫を見ているからできた句なのである。
現代はなかなか一カ所にいるというより目まぐるしく人でも何でも変わる。
まず江戸時代は変わらないのが原則なのである。
村でもそうだし江戸の長屋でも一生同じ長屋にいたのである。そこがなかなか理解しにくいのだ。これほど絶えず移動している時代には理解できない、アパートなんか絶えず移っているのが普通だからである。

現代は江戸時代の回帰が望まれているのだ。貧乏な江戸時代は嫌だというのはわかる。
ただそういうことではなく江戸時代的なもの、時間感覚でもスローペースの感覚である。その悠長な時間感覚が高齢化社会にはあっているのだ。

 
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/79490745
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック