2013年10月25日

人はなぜ御用学者になるのか?」島村英紀を読む (科学者は政治家、企業、マスメデアの力に対抗できない弱い立場?)


「人はなぜ御用学者になるのか?」島村英紀を読む

(科学者は政治家、企業、マスメデアの力に対抗できない弱い立場?)

●科学者のことが素人にはわからない


現代が科学の時代というときそもそも科学というのが素人には近づけないものになっている。専門家しかそこには近づけないし何をしているのかもわかりにくい。科学者も他の専門家が何を研究しているかもわほからないという。それもそうである。それだけ科学にしても多岐に分化している。無数に科学という分野でもパーツ化している。
今回の原発事故では盛んに科学者の責任も問われた。しかし科学者というのはベールにつつまれていた存在であり普通の人は何をしているかもわからない。また問うこともできなくなっている。それはまた危険にも通じていた。錬金術師でありいかがわしいとされた中世とは違いか科学者は社会の重要な責務を与えられたエリートである。
ただこの本では科学者は非力な存在だとしているのは理解できない、科学者でもいろいろあり医者とかとはまた違ったものなのだろう。
科学という時自分は科学音痴であり数学音痴であり高校も落第して卒業できないような状態だった。その原因が数学とか科学が嫌いであり他の勉強も嫌いだった。
受験勉強で強いられてしていただけである。性格がわがままで団体生活になじめなかった。多分に勉強嫌いになったのはそうした自分の責任もあった。

若い時の影響はあとあとまでつづく、三流大学を出ても仕事をしたのはアルバイトでありその時していたのがほとんど流れ作業でありそれ以来仕事したくなくなって今日にいたっている。だから科学アレルギーであり科学について語ることがはばかれるしそういう知識も能力もないのである。ただこの辺がこんな原発事故になったとき否応なく放射能被害にあいみんな放射線量を計ったりして知らないでいられない状態になったのである。

原子核がどうのこうのという次元で素人にはもうついていけないのが科学てある。
でも今はもう科学なしではありえない社会である。科学が宗教になっている時代である。でも科学者というと一体何なのだろうとなり問う術もないのである。

科学でも例えば地震のことなると耐震性を考える時、それは日本の歴史を振り返れば古代から地震に備えて法隆寺の五重塔などが作られていた。それは今でも倒れずに残っているから日本の技術は優れていたと評価される。それでも五重塔どまりであり七重の塔はない、古代に奈良時代にはあったがなくなった。その土台だけが残っている。七重の塔は地震に耐えられなかったのである。城にしても会津の城がもとも七層であった黒川城だったが地震で壊れ今の五層の城になったのである。


日本ではそもそも地震が多いから地震に強い建築が発達するのは風土によっていた。技術も風土が影響する。絶えず風が吹いている所では風を利用するものができてくる。風車はアラビアの方からオランダに伝わったという時、砂漠辺りだと風が絶えず吹いているから風車が向いている。それぞれの国にはその国にマッチした技術が発達する。日本では木の国だから木の建築が多いから木に対する技術が発達する。またトンネルが多いからトンネル技術は優れている。山国だから絶えずトンネルを掘る必要があるからだ。

必要は発明の母になる。大陸ではどこまでも平地がつづく風土でありそこでは見晴らしを重んじる塔がどこでも建っている。それは中国でもそうでありその塔は日本のより何倍も高いのだ。塔の文化は外国にある。それでも地震で一部破壊されることは必ず経験している。ただあれだけ塔が建つのはやはり必要性と風土にマッチしていたのである。
アメリカでは地震が起きる西側には原発を極力作らず東側に作っていた。アメリカの方が地震に警戒して日本では地震国であり津浪国であった。それを科学者が考慮していということはなぜたったのか?なぜ科学者は御用学者になったのか?それをこの本では問うている。

●権力をもつものが責任が課せられていた


科学者も政治の圧力、企業の圧力、マスメデアに圧力に弱い非力なものだという。研究費でもなかなか得られず政治や企業やマスメデアを恐れるのはそのためである。予算が出ないと研究も進められない、予算を握るのは政治家だとすると政治の圧力に屈することになる。つまり政治主導で原発も進められることになっていた。マスメデアも集団で取材に来る時は怖いというのは実感なのだろう。マスメデアはそれだけ権力を実際にもっていて強制できるのである。本当ははマスメデアは私的な会社であり私的な利益を追求しているのだけど電波を独占したから権力をもつようになった。それだけ特権が与えられたのだからまた公的なものとして責任が与えられたのである。今回の原発事故では誰か責任者なのか戦争と同じように問われた。それは権力をもっているものがやはり責任の度合いが重かった。それは何でもそうである。権力には責任が課せられている。権力が悪用されると致命的なものとして被害を受ける。軍隊でも権力でありこれを悪用したら恐ろしいことになる。検察でもそうである。警察が権力を悪用すると恐ろしい木はそのためである。公務員でも権力をもっていているから影響が大きい。戦国時代も様々な権力の相剋であり戦いだった。今でもは様々な利権団体か権力でもって利権を利益を得るために戦っている。


今回の原発事故では漁業組合が天罰だったとか責められるのは一番原発に対して権力を行使する立場にあったからである。漁業組合が拒否すれば原発は建てられなかったからである。それが東電に漁業権を売りわたし巨額の補償金をもらっていた。今でもそうである。そもそもおかしいのは漁業権とは何のためなのか?海の資源を守るためにあるとしたらそういう責任も果たしていなかったのである。つまり権利とかが与えられるのは権力が与えられるのは責任が課せられていたのである。一般的金の時代になると金のもっている人は責任を課せられている。ある金持ちの子供は家庭教師を三人もつけられているが全く効果がないという、こういう人は金持ちとして責任が果たせないからとがめられくだろう。
金持ちでも放蕩したりしたらそれもとがめちれる。金は実際はみんなの共有のものであり役に立たせないと責められるのである。金があるからと勝手に何でも使っていいとはならないのだ。

●権力をもっていたものは科学者ではなかった


原発関係の科学者がほとんど御用学者になったのはそのためだという。理系と文系とか分かれて論議されるが文系が支配しているからこうなったとかとも理系の人は言う。理系と文系が何のかこれまた良くわからないが研究者は理系である。現代のように科学技術社会になれば理系が支配者になるのかと思ったが文系指導になっているのかとも思った。もちろん指導者になるのは理系の人もいる。どういうわけか民主党では首相になった人は鳩山でも管でも優秀な理系だった。でも原発事故ては何の力も発揮しなかった。つまり理系の指導者だから現代の指導に適しているとはならないのだろう。そもそも原発事故が起きてわかったことは原発というのは広範囲な総合的なものとして起こっていたのである。すでに理系が中心でもその原因を探れば社会の人的組織の問題であり狭い原子核だけを研究していることだけては治まりつかないものになっていたのである。


ただ明らかに現代社会の複雑なシステムのなかで起きたものでありその原因は理系の科学者だけのものではなかった。政治問題であり情報にしてもマスメデアの報道も責任かあった。そういう複合的社会全体の問題として原発事故が起きたのである。それは日本の戦争の敗北ともにていただから第二の敗戦とまげ言われたのである。マスメデアの責任というとき津波警報では狼少年になっていたという指摘もそうである。絶えず現代は情報洪水になっている。インターネットでさらに情報が無限大になり何が重要かもからなくなっている。情報を自主的に選択しようにもできない状態、情報のカオスにもなっている。


今までは何が重要かはマスメデアが決めていた。マスメデアに出れば大勢の人にしられるだけであたかも重要人物のようにされる。アナウンサーは本来なにか重要な人物ではないただニュースを伝えるだけのものである。でもアナウサーが主役になっている。それはテレビというメデアが媒体がそうさせてきたのである。朝にテレビのニュースを見るから自ずとアナウサーが全面にでてきてあれやこれやその中心になっている。ただ事実を伝えるだけの違う,必ずなにかにやと批評して色をつけるからその色をつけたものが頭に刷り込まれるのである。そういうことは常にテレビでは行われてきた。ただ大衆は面白いものわかやすいものでないと見ないからその原因は大衆にもあったのである。実際にテレビ局では馬鹿な大衆をいかに操作するかそれが俺たちの仕事だとまで言っている。


●情報洪水社会で情報を的確に処理できなくなったのも原因


だから地震にしても津浪にしても今回その伝え方が問題になった。それ以上にそもそもがマスメデアがもっている問題があった。気象庁でも常に予報を出しているがそうした地震情報とか津浪情報に慣れていてかえって軽く見てしまった。また地震か津浪も来るにしてもそんてものかと避難しなかったのである。それは結局情報時代は常に情報の洪水にあり何が重要なのかどう判断するのかそうした自主性が大衆に欠けているからそうなる。

情報の洪水という時、ある情報が次から次と流れているともう情報の稀少性が喪失する。毎日起きる事件の報道がそうである。事件ばかり報道していると事件の起きることに麻痺してしまい驚くこともない、それが津浪にも波及していた。常に報道されることだからまたかというふうになり軽くみてしまう。情報が多くなりすぎて無関心化しているということもある。情報はいろいろな番組があってもその人自身の興味や経験で深くコンタクトしないと情報の価値がでてこないのである。例えば松本城の紹介で松姫が持ち歩いたという道中お守り筒に興味をもった。なぜか旅が長いから江戸時代の旅に興味がりなるほど江戸時代の旅は苦労が多いからあのようなものをお守りとしてもって旅していたことに共感したのである。あんな大きなものだったということが今のお守りは違って旅するにもいかに苦労が多いからとそれをみれば一目瞭然になる。そういうふうにして昔の残された物から想像力を働かせてゆくことで歴史に興味を覚える。松姫が24歳で死んだのもあわれだともなる。そこには松本城には様々なストーリーが編まれているのだ。松本城もまた耐震性建築では優れていたというのもやはり日本の匠の技がそこにあったのである。


文系でも科学に原発でも何らかタッチする方法があったのかもしれない、ただ安全神話が作られてアンタッチャブルなってしまった。その安全神話を作ったのは御用学者だけではない、戦争の時のように大本営発表の権力構造が作られていてそうなった。だから第二の敗戦と言われたのである。ただ戦争の時のように原発は華々しいものではなく周到に隠されてそうした神話は作られてしまったのである。事故は起こらないは日本は戦争には負けない、神の国だから負けないという傲慢と同じだったのである。それが津浪で打ち砕かれたのである。何より日本が地震国であり津浪国だということすら日本人が自覚していなかった。だからこそ安易に原発を導入したのである。それは科学者の責任でもあったが科学者が非力だったとすると政治や官僚やマスメデアとかそうした社会構造の権力にも由来していた。

そこで見直されたのは実に広範囲なものでありとても科学者だけが責任あったというものでもなかった。社会構造そのものが原発事故を引き起こしたともなる。明らかに原発を誘致した側の地元にもあった。その原因はすべてが利をも求め自らの欲望しか眼中にない、東電から電事連から広告代でも高くむしとりればいいとかマスメデアでなっていた。それは科学技術社会になれば必然的に起こるものだったともなる。
でも科学時代を指導するものはやはりその権力をもった人たちである。権力が独占される暴走することが必ず悲劇を生むのである。科学技術も今や制御できない巨大な権力でありその権力に蹂躙されてしまう。だから人間は科学技術と心中するとまでなってしまう。
原発は外国に売るためにはやめられない、原発と心中するのだとまでなってしまう。


島村英紀氏のホームページ
http://shima3.fc2web.com/

ここでだいたいの要点は読めていた。本だと1500円で高かった。でも本は全体の要点を読むにはいい、ネットはこまぎれになりやすく要旨がとらえにくいのである。
posted by 天華 at 11:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連
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