2013年10月17日

秋時雨(徒歩旅行の若者を見送る)


秋時雨(徒歩旅行の若者を見送る)

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苦労せし顔にぼつりと秋時雨

手に顔に二三滴ぬる秋時雨
交じり合う色の豊かに秋桜
野に芒相馬に泊まる徒歩旅行

徒歩の旅見送り相馬や秋の暮

karetohoryokou111.jpg
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美春湯とあるけどここが鹿島区の唯一の町内にある民宿である。
最近できたビジネスホテルは小池の方にかなり遠い。
これはこの辺の津波や原発事故で需要ができて作られた。
最新の通信設備も整っている。
車だと別に遠いともならないのだろう。


まだ秋だから秋時雨なのだろう。11月になると時雨なのだろう。今日は明らかに時雨だった。ただわずかに三四滴ぬれたのを感じた。
でも時雨である。時雨れも趣がある。
山頭火が時雨を題材にしたことでもわかる。何か特別時雨に感じるものがあった。
「後姿の時雨れて行くか」というときそれは山頭火自身のことだった。

しかし自分のようにもし徒歩旅行していればその旅人に趣を感じる。
車とかバイクはただ突っ走り暴力的に過ぎてゆくだけなのである。
だから自分が話しかけるのは自転車旅行の人と徒歩の人である。
津波の前は東京から歩いてきた年配の人がいたし結構いたのである。
一番驚いたのは鹿児島から青森まで歩く人だった。

それもくそ暑いときだったのである。
その人は公務員を退職して歩いたのである。よほど自由に旅したかったのである。
旅は労力と時間がかかる。今はかえって余計に旅を演出しないと旅にならない。

この若者は千葉からきて川俣の方から飯館の方を回って来た。六号線が東京と通じていたときはこんな遠回りをする人はいない、でも飯館とか回ってくると峠から海が見えたりして六号線とは違った趣が得られる。でも急ぐからみんな六号線をゆく。

それで相馬の道の駅で日立木の方をゆくと松並木があるから昔の街道を通るといいと教えた。でも歴史などに興味がないとどうしても六号線を急ぐ、自分も自転車で旅して5キロくらい寄り道するとかなり遠く感じてできないことが多々あった。先に進まないのである。歩きだと余計にそうなるだろう。最短距離をゆくようになるのだ。だからここの一石坂は本当に急な坂だけど歩きなら最短距離を行った方がいいということであんな急な坂をのぼったのだろう。歩きだとだいたい三〇キロ四〇キロだといっていた。江戸時代は朝が早くたって四〇キロだったから今でも人間が一日で歩ける距離は同じである。

その人は今日は相馬で泊まりそれから仙台までゆく、仙台まで70キロとするとこれも途中で一泊する。ただ徒歩旅行といっても必ず便利な時代だから電車に乗ったりする。
どうしても便利なものが身近にあるからその誘惑に負ける人も多いだろう。
つまり現代は本当の旅行することが相当演出してわざわざ不便な道を行かないとできないのである。この若者だって仙台からは電車で新幹線で帰るのだろう。
目的地が仙台だと言っていたからそうなる。


ともかく自分は今は旅ができなくなった。でもこれだけ旅したのだから旅している人が気にかかるのである。自分は徒歩旅行はしていない、電車と自転車だった。徒歩旅行もしているべきだったろう。本当の旅の醍醐味は徒歩旅行にあったのである。そうなれば江戸時代の旅の苦労もわかるのである。いくら旅したといっても人間の経験は限られていることがつくづくわかる。人間の経験は何するにも限られているのだ。

結局老人になると自分のしてきた経験を語ることになる。その語りが面白くなるには豊かな経験をしていないとつまらないとなる。自分自身もつまらないとなる。何か大きな冒険をした人は老人になったとき回顧してやったなとかなる。平々凡々な人生はその本人も思い出しても何も印象に残るものがないともなる。そしてもういくら金を積んでも経験できない、体験は買えないことになるのだ。


まあ、会社員とか公務員とか先生とかの話はつまらないものが多いだろう。それでもその人たちは安定していて年金は十分にもらえて老後も保証される。
しかし自分の体験を他人に語ってもつまんないと誰も聞かないかもしれない、それより本人がつまらない人生だったとかなるのだ。だから本当に年金を十分もらってもその人生がいいものだったかどうかはわからない、何か特別の困難を乗り切った人はやったなとかなる。戦争などは経験できないものだから良く生き残ったなとか今でも思っている人がいるだろう。姉は従軍看護婦で死ぬ直前までそのことを語っていたから忘れることができなかったのである。


それぞれの人生がどんなだったかは自ずと老人になるとわかる。否応なくわからされるのである。だから老後というときその人のしたことが仕事になりやすい。旅ばかりしていいたら旅に関心があり旅している若者に共感する。ああ、自分もあうして旅していた時があったなと感慨深いのである。そして旅のことを語りたいとなり現実に外国で世話になったからは一室をボランティアのようにして貸している人がネットにいた。
その気持ちが自分にわかった。自分もそうしてみたいとかなる。その旅している若者を見送る自分が普通の人とは違うのである。思い入れが深いのである。
だから本当に旅した人は西行でも芭蕉でも山頭火でも旅の守り神となる。やはり同じ道を行っているから旅している人を見守っているのだ。そういうことが本当にあると自分が旅している人を見送ってそうリアルに思った。


これは一生費やした体験が例えば他の職業でもあるだろう。だから老人になれば体験したものを伝え教えるのが向くようになる。それがないと老後の時間をもてあますだろ。
会社人間の問題は退職すると後進のものに教えることがないことなのである。
それは意外と深刻でありそれが認知症にもなる生きがいもなくボケにもなる。
だから女性でも姑となり嫁に何かを伝えるものがないとボケやすくなる。
今はみんな姑とは一緒に暮らさないからそうした世代間の問題が起きてくる。
いづれにしろ人間はどんな一生でも何かを蓄えているのである。
それが老人になると否応なく現れるのである。


秋桜もいろいろな色が交じり合い咲くように子供でも様々な世代でも女性でも男性でも交じり合い暮らすのがいいのである。老人ホームになると老人だけの世界になるからこれもいいものではないのだ。江戸時代から戦前でもそういう社会があったが今はなくなった。そこにかえって高齢化社会の深刻な問題ともなっているのだ。
老後に備えるといっても金だけではない、むしろどういう人生を送ったかが問題にもなる。公務員とか会社人間だけだと老後は何も生きがいがないとかなってしまう。

いくら金があってもつまらないともなる。一方豊かな経験をした人はたいして金がなくても老後が実りあるものとなる。老後は節約すらなはら節約しやすい、だから金の問題もあるが思い出が大きな価値をとなってくるのが違ってくる。

だからここでいつでも言っているように思い出す、記憶に残る旅をしろよと言っている。徒歩旅行した人にもあなたは必ずこうした旅が思い出として記憶されるだろうと自分は言った。意外と30年前の旅でもそうしたことが起きる。だから今でも旅を思い出して詩や短歌や俳句を作っているのである。記憶に残らなかったらこうした創作活動もできないのである。


ともかく江戸時代辺りは歩いているのだからみんな旅人だった。相馬市から原町まで歩いても旅になっていたのである。歩いているから旅になったのであり今は単に移動していることが多いのである。

 
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