俗謡の分布と連続性-失われた労働の共同の歌
(箒はいらぬ、裾で掃くは栄えた所に残っていた)
野蒜新町竹箒いらぬ、若い娘の裾で掃く
野蒜築港が賑わい料理屋や旅館などが軒を並べるようになって新町と言われていた。
原野に新興市場が生まれた。
飯豊耕土にや 箒はいらぬ
新田、おみかの裾で掃く
http://musubu2.sblo.jp/article/65971043.html
宍道木幡は箒がいらぬ 嫁や姑の裾で掃く
http://www7b.biglobe.ne.jp/~tabikiti/kikou/kikou107.html
狭山茶作り唄
♪狭山よいとこ 銘茶の場所よ(ハァヤレヨレヤレヨレ)
娘やりたや はぁ婿ほしや(ハァヨリコメヨリコメ)
♪お茶は芽が出る蚕は二眠
連れて出るなら 今ここよ
♪宇治の銘茶と 狭山の濃茶
出会いましたよ 横浜で
♪狭山街道にゃ 箒はいらぬ
茶より茶摘みの 裾で掃く
海野宿場は 箒(ほうき)がいらぬ
笹屋およしが 裾で掃く
我々の間にしけ出現したものに工女唄があった。工女は一つの階級で特殊なる利害と心理とをもっていた。
仕事唄は多数の合同作業を必要としなくなって次第にその第一次の目的を忘れて行ったようである。古い霊では今でも残っている草刈り歌、茶摘み歌などどいうのがそれであった。
ここで気づいたのがこういうことだった。仕事歌が生まれたのはその背景に当時の労働がどういうものだったかを知る必要がある。歌は共同性がありその象徴として民謡や俗謡でも生まれたのである。それだけではない歌には辛い労働を紛らわすものがあったりいろいろな要素があって生まれたのである。民謡が非常に多いこと俗謡も多いこと童歌も多いこと昔話も多いことこれらは民衆の文化であった。
そして共同の歌が失われたという時まさに現代がどういう時代か見えてくる。現代は共同性が喪失したことが最も顕著な時代である。その共同性がないから共同の唄が民衆から自発的に生まれないのである。田植え唄でもそれは早乙女がするのはやはり若い女性が主役になるときそこに活気か生まれる。今若い女性がスターやアナンサーに憧れ芸能が商業化してしまい民衆の文化が衰退したというより喪失したのである。
現代の様々な問題、異常性は歴史的に考察してみれば見えてくるものがある。あまりの機械化も共同性を喪失させたのである。田植えが稲刈りが機械でやれば共同の労働がなくなるから歌もなくなる。そこに共同性がなくなる。会社員がほとんどだというとき会社の歌になる。でも会社の共同性と昔の共同性は別なものである。工女というと工業化がはじまった大量生産の走りだけどそこでも時代的に連続したものがあった。そこにはだから共同の歌が生まれていたのである。
現代の文化とは何なのかというと、民衆から自発的に生まれる文化が喪失した時代なのである。すべてが専門家により作りそれを買う時代であり消費するだけであり民衆は文化を作り出さない文化不毛の時代なのである。それは機械と深い関係がある。あらゆるものが機械化するとき共同性も失われる。共同で労働する時一番人間は連体感をもつ、会社が現代の連帯する場所であるというときそこでは一応みんな共同で仕事しているからである。
例えば出版社とかマスコミとか知識や情報分野でも民衆レベルでは参加できない作り出せないものとなっている。新聞社とテレビが知識と情報を伝達するものだとなっている。
これも長くつづくと当たり前であり疑問もさしはさまないようになる。マスコミによって一方的に洗脳されているのだ。ただ一般の人は民衆は気付いていない、マスコミは必ず何か意図をもって報道している。事実をそのまま報道すことはない、ただ気付かないことが多々あるのである。TPPの報道でも公平には報道しない、必ずTPPは得だから参加すべきだということがマスコミの方針なのである。なぜならマスコミを成り立たせているのは会社の宣伝費であるからだ。だからTPP推進になる。第一次産業の農業や漁業や林業はマスコミに宣伝費など払わないのである。東電からは電事連から莫大な宣伝費が入っていたから原発推進になっていた。東電の会長の人が中国にマスコミの幹部を招待していたとき事故が起きたことが象徴的である。
現代は民主主義とかなんとか民衆が自発的にものを言い行動する時代のようになったとか言われる。ところが現代からかつての民衆はいない、ただ専門家の作り出すものを金銭で買う消費するのが大衆なのである。それは情報という面でもそうでありマスコミに操作されて自発的に考えて判断していない、なぜなら情報にしても全国レベルになるとマスコミが主体となってしまうからである。出版なども一見誰でもできるようで限られた専門家しかできない仕組みになっていた。今は本自体は簡単に作れるけどやはり書店には置けない仕組みになっている。それは出版社とかマスコミが力を持っているからなのだ。
つまり現代とは大衆が消費する文化であり何かを作り出す文化がない、それは共同の労働がなくなったとかそこには時代の変化で膨大に喪失したものがあったからだ。
共同性がなくなったといカルト宗教団体が創価でもオウムでも何でもそうした社会背景があって生まれた。これは本当の人間の共同ではなかった。
柳田国男が語り書いたものは戦前でもほとんと喪失してしまった。そこには人間的営みとして貧乏でも豊かなものがあった。現代の文明の発展の中で喪失したものがどれだけ貴重てものだったか?そのことが目前のことに目を奪われて見失ったのである。
過去から歴史から学ぶことは無限にある。現代が何なのかは歴史から見ないと相対化していとわからないのである。昔は貧乏でいいことがなかったというのも事実としてある。
しかし人間の営みはそれだけではない、かえって現代のこれだけの豊かさのなかで失われた精神の貧困や文化の喪失は深刻なのである。過去にはもとれないしろ過去から学び未来を作り出すのが人間なのである。どうして労働の疎外が起きているのか?労働が忌避される時代なのか、それは機械化により人間の労働が自然と一体化したものとならない、流れ作業とかになり労働に充実感が得られない、それは機械化と関係していた。機械化は労働を楽にしたいために必然的に生まれたものだがその機械化が人間疎外を生むという矛盾もあった。機械貧乏で農業が成り立たないとか機械によって苦しめられる人間が一方であった。原発事故はそうした矛盾の象徴として起きたのである。つまり原発事故は時代の矛盾を象徴したものであり一技術者の会社の問題を越えた社会全体の矛盾の象徴として起きたのである。だから現代社会そのものの見直しが必要になっているのだ。