地名は知っていた(上)太宰幸子を読んで
(なぜ奥松島から野蒜から鳴瀬町の旅行のことが読まれているのか)
奥松島⇒野蒜海岸⇒鳴瀬町⇒石巻(自転車の旅-夏)
http://musubu2.sblo.jp/article/29414836.html
地名から津波の被害地域を回って書いた本だが地名の深い考察はここにはなかった。津波の被害地域を回ってその状態を報告したという本である。地名はもっと字地名とかの分析が必要になる。この本にはほとんどなかった。
それでも今回の津波は東北の海岸地帯が一つに結ばれていることを意識させられたのである。津波の被害ということで意識させられた。これまでは津波は宮城県の三陸などでは度々襲われているから語られてきた。でも宮城県でも松島とか多賀城から名取などはあまり語られていない、それでも福島県の浜通りよりは伝説が残されていた。
だからある程度津波については知られていた。しかしやはり危機感が不足していた。
被害を大きくしたのは仙台の市街地が海岸沿いに無制限に広がったことである。
だから多賀城などでは家が密集して海が全く意識されなくなっていた。
でも砂押川に津波が押し寄せてきりぎりで土手でとめたという。意外と海は近かったのである。末ノ松山も多賀城駅からすぐ近くだったのである。
貞観津波では古代の多賀城近辺までおしよせたのでその恐怖を書き記して都であった京都に伝えたのである。
一衣带水
一本の帯のように狭い川や海またはそれによって隔てられること、たとえ隔たってもそのことが互いの往来を妨げないこと
この意味とも違うが東北の海岸地帯は海で共通の文化が意識された。大陸は大河で結ばれるけど日本は回りが海なのだから海で結ばれることが古代からあった。ヤマトタケルの東の国への遠征が舟て行われたというのもそのためである。それはどの辺まで来たのかめいかくではないにしろ多賀城も視野に入る東北の長い沿岸であった。
市がたつような場所はどちらかというと城下から少し離れた川沿いや浜沿いが多かった。古い時代には八幡川の名彼と海岸に近い場所だったと想定できる。川や海が運んでくる大量の土砂が退席していつか土地が安定してくると人々はそこに集まり家が建つようになり埋め立てが行われる。
(志津川-十日町)
これは確かにそうである。磯部の家密集していた所は砂州だったけども田として開拓した地より地盤が安定していた。砂州だからそんなことはないように見えても当時は湿地帯が広かったのだから湿地でないところに家を建てた。それは烏崎でもにている。
浜市から離れて牛綱村というのがある。牛綱村は昔は吾妻街道であったが漁師は漁をするために海辺まで綱を牛によって運んだので牛綱村となったという。
綱で牛をひいて浜市まで来た、浜市には牛で運べるものが魚でもとれたので売っていたので運んだということなのか?牛綱村と浜市には人の行き来があった。もともとは牛綱村に人が住むのが先であったが浜市が市場になり人がそこに移動した。そういう関係が烏崎村にもあった。ここの津浪の被害も大きかった。
白萩はシラはシロは「まっさらになること」ハギは「表土や土地がはがされること」を意味することが多い。
あそこがこんな状態になったのか?相当に家が集まっていて街のようになっていた。たた道が細く松の枝がおおいかぶさるように伸びていた。あの写真などが消えたので注目されているのか?白萩とは一面に萩が咲いている所とはまるで違った意味だった。
ともかく東名とか野蒜とか鳴瀬川一帯、白萩、牛綱などはいい場所だった。それが根こそぎ津波で破壊された。そこはもう仙石線は通らないという。津波の被害地域には通さないから高台に移動する。すると廃線後としてプログで紹介していたサイトがあった。
あの辺は家が密集していたから被害も大きかった。でも仙台の郊外であり別に職を失うわけではないから人口はそんなに減っていないという。残る人が結構多い。石巻などや牡鹿半島でも零細な港は漁業が牡蠣などが生業だったが野蒜は仙台の延長として通勤圏としてあったから違っていた。
ただ津波の被害で東北の海岸がつながっていたことは意識された。例えば津神社は海岸にしかない、その津神社は慶長津波の記念だったとすると前にも東北の海岸地帯は同じような被害があった。ただこの津神社は津波の神社として一連のものとして意識されなかったのである。もし津波神社とみんな名前になっていたら意識したのである。津神社というのがあいまいにして津波を明確に意識させなかったのである。八龍神社は海側だけではない、山側にもある水の神である。津神社は明らかに津波の記念だとすると海岸に接した所にしかないのである。たたあとで綿津見神社とかなり稲作の神となり内陸部に広がった。
そもそも綿津見神社が内陸部に広がることがわかりにくい、海の豊漁を願うなら海岸にあるべきだが内陸になると稲作の実りを祈る神となるからだ。オコゼを山の神にささげたというとき海と山との交流があったことは確かである。それは魚を山に住んでいる人も食べたいのだから歓迎されることは今でもわかる。
ただ海の歴史は消失しやすいのだ。海は大地のように何かモノでも記憶させない、海に船が沈んだら記憶から消える。港も一時的に栄えても船が来なくなり衰退すると船が一杯きて物を運んできたとか言っても時間がたつにつれそれが伝説の港になってしまう。船の交流は記録として残りにくいから小高に港があって船が入ってきて栄えていたといっても遺跡も遺物もないから想像もできなくなる。古墳などはいつまでも形を留めて残っているからそこから歴史をたどりやすいが海の交流は記録が残らないからそこに誤解が生まれているのである。津波の記憶すら明確に残されないのもそのためである。なぜなら町ごと村ごと津波で全部流されたら何も残らないとてる。神社すら流されてしまい消えたからである。