2013年10月04日

秋夕焼 (空間の体験より時間の体験が記憶に残る)


秋夕焼

(空間の体験より時間の体験が記憶に残る)

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秋夕焼残れる色やなおにじむ
ともしさや街の灯あわれ秋夕焼
虫の音や梅干しにご飯食終えぬ


今日は秋夕焼けか美しかった。徐々に赤い色が消えてゆくがなお残り消えるまで見ている。こういうふうに時間の移りの中で自然をとらえるとき自然がわかる。
テレビにしろ写真一枚みてもあまり感動しないというとき時間で刻々変わる風景を体験できないからである。テレビなどでも外国の旅行でも感動しない。
それは時間の変化の中て見れない、空間は一分間に百キロくらい移動している。
でもその中て写されるのは二三秒とかになっていたらとても感動できない。
自然でも何でも見るには時間が必要なのである。

その時間がないのが現代なのである。

だから空間の移動は一日で地球の裏側まで飛行機で行けるとしても何の感動もないのである。時間というのはいかに貴重なものか老人になったらいやがおうでもわからせられる。人間には空間の体験と時間の体験がある。
時間の体験ができるのは意外と限られているのだ。

時間が一番体験できるのは長く住んだ所であり旅行では時間の体験は限られているのだ。ある場所に一つの場所に一日いればそれなりの時間を体験でできる。

しかしそういう旅行はみんなしていない、次から次と移りゆくから体験の質が浅薄になり記憶に残らない、江戸時代だったら歩いているのだから時間と空間を体験する密度が違っていたのである。

現代は時間の体験が希薄なのである。空間の体験は千倍になっても時間の体験が希薄だから何か精神も浅薄になっている。例えば何度も詩にした石をわかるのには相当な時間がないとできないのだ。だから老人になった時石というものが何かわかる。それは空間的体験ではない、極めて時間的体験から理解できなるものなのである。


母はご飯と梅干し一つではも満足である。なぜならもともとそういう生活を若い時していた。卵も食べないしたくわん、味噌汁、梅干しの食生活だった。製糸工場で10年働いていた時ずっとそうだった。だから今は確かに食べられないからそうなのだがもともとそういう生活だったのである。その当時はそういう人が多かったのである。
醤油さら満足に使えないという時代があった。
田舎だと秋夕焼とかが心に沁みる。

ただ最近家事など忙しいからゆっくりもていられないのだ。
今までならほとんど時間を気にしたことがなかった。今は時間に追われるのである。

夕食の支度をした。夕食を終えた、今プログを書いた。
次は風呂を洗ったからこれから風呂に入る。電気の自動風呂だから容易は簡単である。
それだても次々に仕事があるのだ。特に自分の書いたものも整理しきれなくなっていて
これの整理も大変なのである。新しいパソコンもなれるのに時間がかかったとか
この知的作業の整理も相当に時間のかかるものなのである。

 
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