2013年10月03日

飯館村佐須の歴史と伝承から飢饉の考察 (比曽もやはり焼畑地名だった)

 



飯館村佐須の歴史と伝承から飢饉の考察

(比曽もやはり焼畑地名だった)

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●相馬藩の天明の大飢饉

八戸藩の収穫[編集]
1782年(天明2)7,243石(表高2万石)
1783年(天明3)19,236石
1784年(天明4)16,457石(耕作しない)


天明2年(1782)に奥羽地方で冷害が起こり死者11万人の被害が出た。天明3年(1783)には浅間山の噴火が起こり噴煙が日光をさえぎり、東北と関東での凶作になった。噴灰が川底に堆積することで洪水を起こし被害を与えた。天明年間(1781から1789年)は浅間山の噴火の影響により日本全体が平年よりも気温が低い寒冷期であった。

 


天明には相馬藩内の餓死者はすでに8,500人を越えていた。その後16,000千人死者及び行方不明者を出した。相馬藩はなんの備えもなくその飢饉と荒廃ぶりはとりわけ深刻だった。
さらに山中郷は一番深刻だった。


栗、柿、楢、樫の実、椚の実を食べた


椚(くぬぎ)の実
http://ameblo.jp/eizo-blanding/entry-10352996544.html


原釜村にては38人、尾浜村にては17軒死絶え・・


越後など役人を派遣して女子を買い入れこれを領内の困窮者で妻のない者にめとらして子を産ませ援助した。


天保7年の凶作では内高10万石をこえる相馬藩の収納高はわずか457石にすぎず江戸商人からの借金、大阪、秋田からの米の調達、領内の富民からの献納米、さらには材木の伐採、売却で今回は相馬藩内に餓死者はでなかった。

天明の飢饉は一番悲惨であった。これは全国で起きたし関東東北が被害が大きかった。浅間山の噴火で日がささず低温になったという。これは江戸時代の初期であり飢饉による備えがなかった。その後の天保7年の凶作では対策をして餓死者は出ていないのである。
つまり流通とか備蓄とかしていれば飢饉も餓死者がでままでにはならない、そういう深刻な経験を積んで餓死者をなくしていった。


栗、柿、楢、樫の実、椚の実を食べた。


ここに栃の実がない、栃餅とかは会津の方でとれる。これはうまいのである。椚(くぬぎ)の実はどんぐりとは違う、でもやはり実であり食べられた。こういうものに今は関心がない、そもそも人間は食料でも日頃食べていなければ関心がなくなる。それでたいがい木でも地名化したの実用に役立てたものであった。それは染料でもいろいろありそれか地名化した。なぜか椚平(くぬぎたいら)とかの地名が一時放射能で話題になった。初めて聞く名なので椚とは何なのだうと思った。それはやはり椚の実が食べられるということがあった。それて椚が他にも実用的側面から椚平と地名がついたとき名づけられたのだろう。
椚の木がたくさんあるということもあった。でもそもそも椚の木に今なら誰も注目しないだろう。


それからなぜ原釜村にては38人、尾浜村にては17軒死絶え・・・とかあるだすう。山だけではない、海側でも餓死者がでた。海だったら魚もとれる買いもとれる。それでなんとか飢えをしのぐことができるだろう。でもその時は魚も不漁だったとなる。漁師の逃散はあまり聞かないけどやはり不漁になれば農民と同じく餓死者まででる。


天明の飢饉の頃は魚も不漁だったところが多いようです。カネに困ると借金したり持ち船を売ったりして、とりあえず食料を確保し、それも出来なくなれば、夜逃げで他の地域に逃げ活路を求めようとし、逃げていった先で死ぬことも増えます
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7759251.html


いつれにしろ天明の飢饉は全国に及んだし全体に波及していたのである。そういう中でも江戸には米が集まったから江戸では餓死者はでていないというのも不思議である。普通だったら飢饉になれば自分たちが食べる米を第一にするから他の藩に売らないとかなるし農家でも食料となるものを売らないと思う。でもかえって米の価値が上がって飢饉の時も米を高く売りつけていた。飢饉に対して藩が有効な対策をとっていなかった。そさだけ江戸初期でありまだ人々の生活は安定していなかったのである。

興味深いのは

越後など役人を派遣して女子を買い入れこれを領内の困窮者で妻のない者にめとらして子を産ませ援助した

こんなことして人を集めていた場合もあった。結局これほど困窮していたということでてある。このことは相馬藩の戸籍を記録したものがあり
その出身が越後や越中とかの人がいる。そういう人は強制的に連れてこられたのか?
津島では中国人の嫁が鉈で夫を襲った。こんな山中ではなく都会に出たいと襲ったのである。
時代が変わっても同じようなことがあるのだ。この天明の基金では親族までその肉を食べたというから悲惨を究めたのである。

●比曽も焼畑地名だった

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地名に興味があると津島に行く椚平とかに下冷田とかいう地名がある。これか何か寒冷地を示す地名で心に残っている。ただ地名といってもなかなかわかりにくい。佐須は明確に焼き畑の地名でありこれは全国にあり地形的にも真野川の源流地域であり隔絶された場所だった。


蚊野の名は火野から生まれた。(地名語源辞典)火野とは山林を焼き払って種をまく焼畑農業が行なわれた土地のことである。


津南町では反里(そり)、そして反里口(そりぐち)があります。
いずれも『ソリ』は古語で、焼畑を作った所です。


関連情報として「反田」姓や「ソリ」という地名については、「反田とは傾斜地にある田」(『日本名字家系大事典』)「反田は傾斜地の田や焼畑を意味する」(『角川日本姓氏歴史人物大辞典 19 山梨県』)という記述や、「ソリ、ソレとは、(焼畑を)毎年連続耕作しないで、数年ごとにソラシ、ハズシて休閑させるという意味の語か」(『地名語源辞典』)という記述をあわせて紹介する。


比曽とは比曽原という地名などありこれは佐須と同じく焼き畑地名である。火は焼畑であり焼くからそうなる。ソはソルであり焼畑からてた言葉である。火とソルが合体してヒソとなったのである。あの辺は草野からさらに奥地だから佐須と同じく焼畑の地名にはふさわしい場所である。ただその後あの辺でその明治以降でも戦後でも開拓に入っている人たちかいる。津島はそうだった。だから地名自体が古く江戸時代から歴史があっても昭和からの開拓者もいるのだからまぎらわしくなるのだ。


●飢饉の原因


○幕藩制の欠陥


 幕府は天明6年(1786)に2分の1に、翌年には3分の1に酒造制限を強化し、酒の原料である米を食糧として流通させた。しかし、幕府は米に余裕がある藩に対し飢饉で苦しむ地域へ強制的に余剰分を送るように命じるという権限はなく、そのような命令を出す考えがなかった。

 例えば、天明6年(1786)は例年の三割程度の収穫減だが例年通りの収穫があった地域もある。幕府の命令で、強制的に余剰米を流通させればこれだけの餓死者は発生しなかったはずである。 


飢饉の原因
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=271634


それでは、凶作の年はどのような物を食べたのでしょうか。作物の生育期間の低温や日照不足によって不作となる凶作年は、米だけが不作となるのではなく、麦や稗などの他の穀物も不作となることが多くありました。こうした場合に備えて、家毎に蕎麦そばや稗ひえ、干し大根などを井楼いろう(大箱)や梁上りょうじょう(まげ、焚き火の上)に貯蔵し、凶作時の備えをしていました。


この頃の天候では簡単に不作にもなるので、飢饉対策・万一の食料確保でサツマイモやその他の方法も工夫されて行きます。
 千葉県の幕張でも、天明(1783〜88まで続く)・天保(1833〜39まで続く)の大飢饉にも、このあたりで餓死するものは皆無だったそうです。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~nakanisi/rekisi.html


ここから抜粋
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7759251.html


沖縄に伝わったサツマイモはその後九州に伝えられた。導入に貢献した人物は薩摩指宿の浦人(海辺に住む人:漁師)
 利右衛門(後に前田)である。利右衛門は宝永2年(1705)水夫として琉球に渡ったが、その折に持ち帰ったといわれている。 この結果同地における「享保の大飢饉」を救ったと考えられている。利右衛門は現在同地で「甘藷翁(からいもおんじょ)」と呼ばれ、 利右衛門ゆかりの地に徳光神社が、またこれ以外の2箇所に頌徳碑が建てられている他、
 大隈半島など県内の各地に供養塔が建てられ崇敬されている。余談ではあるが、 このイモから搾った「利右衛門」は、今や鹿児島産の銘柄の一つとして、左党の間では知る人ぞ知る逸品でもある。
http://www.nodai.ac.jp/journal/research/suzki_s/0805.html


天明年間の少し前に、南部藩に対して幕府から多額の上納金の要請があり、そのときは支払ったが、二度目はなにがなんでも断る口実をつくるために、関東で浅間山の噴火によってやや凶作があったのを幸いに、南部藩でも大変な飢饉があったことを演出した。大量の餓死者があったことにして、表の帳面には大量の人口減があったことにし、実際は別の数字を書いた裏帳簿があったことが確認されている。人が減れば年貢収入も減ったことになり、あらゆる帳面をとりつくろうことになる。
http://nire.main.jp/sb/log/eid218.html


飢饉は防げるものであったことがこれらの引用でもわかる。ただまだ江戸初期でしりそれだけの備えをする力かなかっただけなのである。日本には自然災害が多いけど自分の住む場所も街て一番低い土地なので二回も洪水にあって被害を受けた。でも堤防を強化してからは洪水はなくなった。自然災害も飢饉も備えがあれば防げる。天保7年の凶作では餓死者が出ていないことでもわかるのだ。

日本は飢饉があるのはと米の不作になることが主要な要因である。それで沖縄でとれていたサツマイモを薩摩藩の漁師が取り入れて飢饉に備えた話は面白い。沖縄は南国だからサツマイモ栽培に向いていた。紫のサツマイモが沖縄ではとれる。焼酎にもなる。
もともとサツマイモは南国産である。例えばベトナムでは地下壕に入りアメリカ軍と戦った。その食料がサツマイモだったのである。このサツマイモは南国産だから育つのが早い。

高温性植物で強光と日照りで良く育ちます。食糧不足の際でも育つ野菜として知られており、肥料なしでも育ちます。

サツマイモはやせ地でも育って、収穫量も多いので初心者でも育てやすい野菜の一つ!たくさん採れ過ぎても貯蔵しておけるので便利です


これはベトナム辺りだと日差しも強いか早く育つのである。だから食料があるから戦いたともなる。こういうふうに飢饉の備えができてきたからもう日本でも飢饉はなくなった。
ただ今度の放射能問題は備えがなかった。あのような奥地まで放射能が関係するとは思わなかった。放射能にはどう対処していいかわからないのである。やはり土とか水とか空気でも基本的な生活のベースになるものが汚されると生活そのものが破壊される。
飯館村にしても原発のことなどあまり考えなかった。そこが現代の盲点だった。



あとがき



赤字木(あこうぎ)に住む人から前にメールがあった

比曽(ひそ)に住む人からコメントがあって今回この文を書いた

アグリの店長からコメントがあった

浪江で東京に避難している人からのコメントがあって浪江の橋について書いた


飯館村にしろて浪江にしろ避難しているのだから帰れないのだから深刻である。
天明の飢饉よりはいいと言ってもそれはあまりにも異常な悲惨なことだったから
比べることはできない、ただ江戸時代からの歴史が比曽(ひそ)でもあるということが見逃されているのだ。
今回はなにか津波でもそうだが400年前の歴史がどうだったかそれが命にかかわっていたのである。
今は歴史はそんなに重んじられていない、でも土地の歴史を知ることが命にかかわっていたということを知ったのである。
山中郷も相馬藩ないであったのであり歴史が江戸時代から記されていた。
そこに住む人の思いがそうした歴史とともにあるというのも見逃せないのである。
たからなかなか簡単に移住するというのもできないということはあるだろう。
ただそこにはいすいろな複雑なものがありいろいろ迷いる、逡巡しているというのが現実だろう。

posted by 老鶯 at 11:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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