秋風吹く八沢浦から磯部、松川浦、相馬市へ
(津波から二年半すぎてめぐる)
これは水葵とも違うのではないか?
こんなふうに咲くのか、何の花なのだろうか?
渡り蟹
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夏菊や海の展けて沖に船
釣り人は女性二人や秋日和
秋日さす下がり松に我がよりぬ
幽遠にここに古りゆく秋柳
八沢浦秋の日晴れて風そよぎ蔵王大きく迫り見ゆかも
津波後沼の五六や八沢浦葦に薄の風になびきぬ
秋風の沼にそよぎてさわやかに嘴(くちばし)鋭し鴫飛びたちぬ
ここに人住みしを知るや秋風に葦のなびきて時のすぎゆく
人の住む跡は沼ともなりにけり秋風そよぎ葦の覆いぬ
松川浦その浦浪の宇多川に秋風そよぐよせにけるかな
宇多川の河口によせる浦風や秋風さやか百間橋行く
宇多川の岸に残れる木の音かな津波の形見ここを離れじ
渡り蟹十匹ほどや松川浦秋の日さして釣り人と話す
梅田川岸辺に畑秋日さし村も古りぬる橋をわたりぬ
街道ははや稲刈られぬあわれかなまちばばしに陽のかげるかも
心なき身にも哀れは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ 西行
歌われた場所の候補としては花水川の河口部の葦原が考えられます。
鴫立庵から1`ほど東側に位置します。
この歌も実際わかりにくい、鴫が飛び立って行ってしまった。あとにはただ沢が残っている。これはどこが名歌なのだろうか?心なき身にも哀れは知られけり・・・これだって何か理屈っぽいからいちいちこんなことを出すのも名歌のように思えない、でも古来これが名歌だとされている。それがなぜわからなかったのか?つまり鴫立つ沢の秋の夕暮れの景色が喪失してしまっていたからである。今回津波の跡の八沢浦を回ったら本当にくちばしが尖った曲がった大きな鴫がまさに飛び立ったのである。そこには家が何軒かあったが
今はそこに人が住んだ気配さい感じない、というのは八沢浦は人家が密集してなかった。あそこにも家があった何軒かしかなかった。だから自然の中に埋もれてしまった。
そして鴫が飛び立ったときまさにこの光景だった。
鴫が飛び立つとは常住旅人の西行のことなのだろうか?鴫が飛び立った後に寂漠として沢の野原しかなかった。それよりも不思議なのは津波で死んだ人がいるのだから鴫のように飛び立って帰ってこないともなる。後に残ったのは寂漠とした野原と沼になってしまった。鴫が飛び立ってどこかに行ったように後に残っているのは原っぱと沼だったともなる。それも秋の夕暮れであり一段と寂寥感が身に沁みる。一人旅だとそういう寂しい余韻を残す、大勢の旅は旅人にならないのだ。つまり旅人になることは特殊なことなのである。
八沢浦からあんなに大きな蔵王が今日は見えた。不思議なのは確かに八沢浦から見えるのだがこうして大きく見たのははじめてのような気がする。前にも見たにしろこんなに大きく見えたのかと思う。磯部から大きな蔵王が見えた。蔵王は八沢浦が本当に浦になっているときあれだけ大きく見えるのだから浦にその影を写していたのである。
高瀬さす八沢が浦の夕波に色をみだせる雪の遠山
雪の遠山は蔵王のことである。雪の蔵王はいつも見える風景である。阿武隈山脈はあまり雪がふらないから雪の遠山とはならない。八沢浦は明らかに蔵王と風景が一体化していた。色を乱せるというのもその浦の水面が常に蔵王を写していたからなのである。
今回は一部そうした沼にその浦がイメージされたのである。
次に宇多川から百間橋をわたり和田に出て沼があった。広い沼だからゆったりと鴨が泳いでいる。いつも見ている沼は小さすぎたと思った。そこから松川浦の岩の子に出たら釣りしている人がいた。蟹を十匹くらいとっていた。これはあとでわかったが渡り蟹という名の蟹だった。それは若い女性が二人釣りをしていてその女性が知っていたのである。
標準和名はガザミだが、「ワタリガニ」の呼び名の方がよく知られている。ボートの櫂のような第5脚を巧みに操って泳ぎ、遠くへ移動することからの命名。
また、このカニは月夜に群れをなして泳ぐことから「月夜ガニ」とも呼ばれたり、形から「菱ガニ」と呼ばれたりもする。
「ガザミ」とはカニのハサミの略語で、ハサミを意味するカサメの転訛とも云われてる。『本朝食鑑』には、「一つのハサミは大きく、一つのハサミは小さいので、いつも大きいほうのハサミで闘い、小さい方で物を食べる」とある。
ワタリガニを食用としたのは弥生時代にさかのぼるとのことから、それだけ手に入りやすいところに生息していたことが想像される。
季節的な鉛直移動を行い、夏季は沿岸や水深40m以浅の湾内の海底に棲息し、冬季には沖合や湾外の深場に移動する。水温が14〜15℃に低下すると摂餌活動を停止して砂の中に潜り、水温が10℃前後に上昇するまで冬眠する。
http://www.maruha-shinko.co.jp/uodas/syun/58-watarigani.html
渡り蟹だから渡り歩くと思ったがそんなには遠くには行かないみたいだ。ただそもそも蟹にしてもその生態は人間にはわかりにくいのだ。動物自体もやはり本当はよくわからない神秘的なものなのだろう。冬眠するというのも不思議である。冬眠は仮死状態でありそれでも生きられる不思議である。熊は知っているが蟹もそうなのかと不思議である。
自然界のことでも人間がみんな知り尽くしているわけではない、だから今回のような津波でも驚いたのである。自然界のことを知ったと思っていても想定外のことが起こる。
自然界のことが実際は全部などわかりようがないからなのだ。
梅田川は埋めた川であり確かに半分が埋められている。ということは古い川なのである。あの辺は古い村なのである。
そういう歴史がわからないとただの川として見てしまう。ただこうした歴史はなかなか近くでないと旅してはわかりにくいのである。
新田とあってもあの辺は元禄の碑があったように古い村だったのである。
梅田ということに古さがあったのである。
相馬市の小泉川の柳はいい柳である。いかにも秋柳という感じたった。そこから浜街道の松並木を通り日立木のまちばばしを渡り帰ってきた。まちばばし・・あそこは何度も書いているけど情緒ある場所なのである。ただあの橋に気づいている人はまれだろう。
人間は意外と近くのことを見ていないのである。近くのことを知らないというのも人間の盲点なのである。灯台下暗しなのである。別に自然だけではない、一体近くでも人間の暮らしがどうなっているのかわからないことがあるのだ。人間はどんなところに住んでいてもせいぜい身近に接する人間は限られている。数人くらいになってしまうだろう。
するとあとは直接は接することができないからわからないとなるのだ。
漁師のことだって確かに話を直接聞いたことがあったがなかなかわかりにくいのだ。
この辺の景色を確かにフォトブックにして案内するといいかもしれない、その作り方は会得した。パソコンを利用して自分流にいくらでも作れる。本になると販売もできるからいいのである。本とかは今は簡単に作れる時代になった。本屋でカラーの写真だとかなり高くなる。でも自分でも一五〇〇円くらいで15ページ作れるとなると安いと思う。
現代は何かそうして自分で地域でも個人でも情報を発信しないと商売でも繁盛しないだろう。ただ花屋にしてもそういうことにあまり関心ないみたいだ。
若い人より今は花屋を利用しているのは年取っているせいがあるかもしれない、みんな本を出すということは一生の夢だったという時代があった。
本自体は今は簡単に作れる。ただそれを流通させることは至難である。
近くの本屋すら売れなければ置かない、だからインターネットを通じて売る時代になる。個人が発信して出版社になる時代である。
それだけのことがインターネットでできる時代なのである。