2007年12月05日

戦地の引揚者が入植した歴史

 
戦地の引揚者が入植した歴史 


戦後県では 食糧危機 に対処して開拓を奨励したが、28年3月現在では、開拓入植者の現在員総計3,310世帯中引揚者1,280世帯で39%を占めていた。


 戦後、中国からの引揚者によるラーメンの屋台が全国に出現した。中国で多くの人がラーメンの製法を覚えてきたのに加え、安い材料で美味しく栄養満点のラーメンは、戦後の物資が乏しい時代に、まさにピッタリの食べ物であった。
 

それから同じ芝山町の加茂には、石井部隊で有名な軍医中将の、石井四郎がいた。彼は日本の細菌戦術の創始者で、旧満州を本拠地にしていた。この部隊には芝山町、多古町を中心として地方農村から、多くの農民が家族連れで渡満し、軍属や徴用工で働いていた。敗戦と同時に命からがら逃げのびてきたが、途上、栄養失調でわが子を失なったり、病に斃れた者も数多かった。やがて彼等は郷里に帰り、引揚者として優先的に解放地に入植するのである。
http://bund.jp/modules/text/index.php?content_id=4

 
戦争の話はいろいろありすぎる。戦地から引き上げても仕事がないからやはりまた日本のなかで農業するために開拓に入ったのだ。満州に移民したのも農業するためでありその頃はすべて農業が仕事でありそれ意外仕事ととなるものは少なかったのだ。毛沢東でも「農村が都市を包囲する」という思想であり農民中心の革命を志向した。戦前でも戦後まもなくでも農業中心の経済だったのである。戦後ブラジルなどに移民したのも農業するためであった。世界的にも農業が仕事としてあった。
 
私の父は偶然、双葉の新山の酒屋で一緒に働いていた仲間とあったのである。その人はフィリッピンから帰ってきた引揚者だった。小池に入植して粗末な小屋に住んだ。他でも事情は同じであり戦後粗末な小屋に住んで開拓に入った人がかなりいたのだ。ちょうどその時店をはじめていてその後その人と交流がつづいた。卵を買ったりして売っていた。その頃卵はバラ売りであり農家でも放し飼いしていた鶏から卵をとっていた。それを古い自転車で後ろの箱に糠をつめて壊れないようにして運んだのである。でも自転車がヤハだから必ず一個くらいは壊れるのである。それとその頃ほとんどの道は舗装されていないからガタガタ道だから卵は壊れやすかったのだ。橋も木の橋だった。日本が戦後工業化するまでは発展するまでは農業しか仕事がなかったのだ。その後朝鮮戦争を境に工業化が飛躍的に起こり10年後くらいにテレビがすでに出て急速に工業化されていった。団塊の世代が中学生で金の卵ともてはやされて東京に働きに出たのもその頃だった。工業化が飛躍的に進んだのである。だから元からいた農家と引揚者が入った農家は全然違っていた。栃窪の上萱や飯館の共栄という場所なども戦後入植した地域だった。そういう場所はかなりこの辺にもある。満州でも広い土地がもらいからと満州に渡ったのでありその後ブラジルなどの移住もそうだったのである。日本人は土地がなく農業できないから土地を求めることが戦後もつづいていたのである。
 
この辺では原町一が一早く丸三製糸とかができて森林鉄道もあり東京に木材などを運ぶ基地として発展した。この工業化は非常に急速だったのである。10年一昔というが本当にそうだった。田中角栄の日本改造計画がもてはやされて日本は一変したのである。それとともに自然環境の破壊がおこり急速に景観も変貌したのである。それまでは茅葺きの農家とか木の橋とか戦前から江戸時代を思わせるようなものが残っていたのである。そこには縁側があり道はほこりっぽい道だった。でもすでに自動車は増えていた。自家用車は少ないにしても野馬追いのときその道を行く車をその縁側で子供のとき数えていた。その頃から変化の兆しはあり変化は急速だったのだ。まだバス全盛時代だから車社会ではないが車の数は急速に増えていったのだ。工業化して農業にこだわる時代は終わりつつあった。工業化のため生産拡大のため人手不足となったから農村から労働者が送られた。これは農村からの出稼ぎ者としてまたつづいていたのだ。これはまだ中国などから労働者を入れることなく日本でまかなうためにそうなった。
 
いづれにしろNHKで今日満州の引揚者のこと放送していたが物とりが横行してパンツまで中国人によりとられたと老婦人が言っていた。これは私の家族も従軍看護婦で言っていた。死人からも墓を掘り起こして金目のものを探し衣服まではがされたというから同じである。ともかく戦後の混乱はまさに生き地獄だった。日本人は残酷に中国人などう殺したというが中国人も、ソ連も残酷だったのだ。どさくさにまぎれてやり放題だったのである。これが戦争というものが人間を野獣化させるからそうなる。暴行され外国人の子を妊娠して堕胎させられたというのもあまりにも悲惨である。戦争の悲惨は目をおおいたくなる。なぜ戦争になったかはなかなか今でも理解できないが満州への土地を求めて農業で仕事をえるための移住という側面はあった。農業基本の社会であり農業が人口の余剰を補う仕事だった。日本そのものが農業するための開拓の歴史だったようにそれが外国までに拡大化したことが戦争の大きな要因でもあったのだ。今の時代ならなぜそれほどまでに農業にこだわるのかとなるからだ。減反とか米余りとか考えられない社会になっているからだ。戦前の近代化もすでに歴史のように団塊の世代の過去も歴史となりつつあるのだ。段階の世代が還暦となったことはすでに過去をふりかえる歴史となっているのである。
posted by 老鶯 at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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