2013年09月23日

津神社の謎 (烏崎村の津神社は高台にあったのを移動したのか?)


津神社の謎
(烏崎村の津神社は高台にあったのを移動したのか?)

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《流された神社は11社ほどありました。8社は南相馬市鹿島区に集中しています。その8社のうち、いくつかの由来については市史・町史に記述が残っていました。それによると、例えば、津神社(番組に出た相馬市の津神社とは別)は、番組にも登場した八龍神社(もともとは港の神)が、船の大型化による港の移転の際に、年代は不明ですが、低地へ分社して成立したことになっています。
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20110830


鹿島区の8社の神社が流されたというのはなぜか?その場所が新しい場所だった。江戸時代にしても南海老村でも北海老村が先にあり海の方に人家が増えて新しい村が形成された。もちろん八沢浦は明治時代に干拓されたのだから新しい、その一つの神社も流されたし南海老村の神社もいくつか流された。

そして烏崎村に津神社があったがこれがなぜ今の港の近くにあったのか?これはもともと
平地にあったのではない、つまりここで指摘されているようにもともとは家が密集していた浜町という所の高台にあったものが移されたのかもしれない、あそこにあった八竜神社は高台にあり急な石段でありなぜあんな高い所に建てたのか不思議である。

そもそも神社は一般的に高い所に建てる、古い神社はだから一般的には高い所に建てる。ただ今回井田川を回って下浦では新山神社がありあれがなぜあんなに高い所にあるのかも不思議だった。あんな高い所まで津波が来たとか思えないし新山神社と双葉に新山という城があった所がありそこから移住した人が祭ったのだろう。それは江戸時代になるのかそれ以後なのか?ともかく新しい神社でありでもあんなに高い所に祭ったのである。

これは津波とは関係ない神社である。別に高い所にあるからといってすべてが津波と関係しているわけではない、ただ不思議なのは相馬市の松川浦の津(つのみや)神社や烏崎村の八竜神社は津波からぎりぎりでまねがれて社が残ったのである。北原の島商会にゆく坂の入り口の津神社も明らかに津波の記憶からあれだけ高い所に祭ったことは確かである。

津波は道とか斜面を押し登ってくるからかなり高い所まで津波が来るのだ。島商会に行く坂の入り口にある津神社があれだけ高いのはそうした津波が実際は登ってくるからあんなに高い所に建てた。また烏崎の八龍神社も急峻な石段になっている。

小高の綿津見神社もぎりぎりで残ったのだろう。前は崖だったけど津波の勢いが崖では強くなっていた。だから双葉の原発がある所の崖に津波が押し寄せて勢い良く大波がぶつかり砕ける様は恐ろしいものだった。その衝撃がものすごいものだったのだ。
だから海岸線の村は一瞬にして木っ端みじんになった。家が吹き上げられたようになって流された。津波がいかに海岸に接している所で恐ろしいものかまざまざと見せられた。
だから津波の経験があれば絶対にあんな危険な場所に家は建てないのである。またあんなに密集して家を建てない、そういう危険があるのになぜあれだけ家が密集するようになったのか?時間がたつにつれて津波のことが忘れられたのだろう。


古い神社は一般的には高い所にあった、平地にあったのは新しいものだったというとき
相馬藩ではそうだった。烏崎村でも牛島は今の港があったところは家が密集して八龍神社があった所より新しい、なぜならそこは湿地帯でありその後ろに袋村があったが消えたことを考察したが牛島でも牛とつくのは湿地帯でありそこに人が住んだのは新しい時代である。そもそもあそこの港ができたのはいつなのか?明治になってからなのかもしれない、
江戸時代にはなかった。新しい港でありそこに津神社があったけどそれは浜町とか家が密集したところから移された神社だった。もともとは高い所にあった。

烏崎村は烏浜であり岩松氏が鎌倉時代に船で上陸した地点であり烏浜はその伝説に基づいてなづけられた。だから烏崎村は古いのである。牛島にある港はずっとあとにできたのであり明治以降なのかもしれない、ともかく津神社は牛島にはなかった。家が密集していた高台にあったのが移されたのである。そしていつしか津神社が津波を記念したものだということを忘れてしまった。鯨を祭るようになってしまっていたのだ。だから神社の裏側には鯨の碑や金比羅の碑があったのである。


いづれにしろみんなが津波のあとに一番疑問に思っていることはあんな危険な場所に人が密集して住んだのかということである。三陸辺りではここより下に家を建てるなという言い伝えがあった。ならば相馬市の松川浦の津神社(つのみや)の下には家建てるなとなる。なぜなら津神社の下は原釜であり一段と低くなり海岸に接して家が密集していた。

原釜には塩田があった。それは江戸時代である。だからすでにその時から海岸に接して家があった。でもあれだけ家が密集するようになったのは明治以降であり昭和であり最近なのかもしれない、ただそこでも津神社のいわれも明確ではないし無視されていたのである。島商会に行く坂を登る津神社は本当に隠されるようにしてあった。あの神社は本当に不思議である。まさに隠されたまま注目されず何の由来かも知らずひっそりと四〇〇年間存続していたのだろう。神社は由来がわからないのが結構多い、その由来がわからないということはいくら神社があってもその由来が村の人によって伝えられていなかったということなのだ。それが大きな被害となったのである。


結局神社の名前にも問題があった。もし津波神社となっていたらわかりやすかった。なぜ津神社としてまぎらわしいものにしたのか?浪分神社があったが名前から分かり安い、津神社だけでは津波のことをイメージしにくいのである。ただ津波は四〇〇年前の慶長津波から生まれた名前でありそれで津の一字になった。津というのが何なのか?つはつづらとかつづくとかのつであり津の意味はもともとそういう意味だとすると津波に由来していた。なぜ津波になったのか?つづく、つづら、とか地がつづいていて浪がつづき押し寄せることの意味だった。そういうふうに津波を見るようになったから津波に名前が変わった。それまでは海嘯とか全く別な名前だったのである。浪がつづき押し寄せるから津波になった。ただつくづく人間は名前に左右される。津神社と津波神社ではまるで違ったものとなっていたのである。地名でも常にその名前からその土地をイメージする。それが実際の地形とか由来とは違ったものでも名前から人間はイメージする。だから名前がいかに大事なものなのかわかる。津波神社となっていれば誰でも津波なのかと即座に思うからである。ただ津神社では何なのだろうとなって津波を意識されなかったのである。

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島商会へ行く坂の登る入り口の津神社は一番不思議である。
雫(しどけ)とかの村があるけどこれは古いのか?
萱浜(かいはま)はここよりかなり低い地域にあり被害が大きかった。
ここは越中からの移民が主に開拓したところだった。
ここでも村の新旧が問題になる。
津神社のある場所は古いのだろう。萱浜に移民が住んだのは江戸時代である。
津神社が建てられた後に住んだ。では高台の方はそれより前に人が住んでいた。
萱浜の人たちには津波のことが伝えられなかったのか?
移民した人が多くなり津神社のこと津波のことは忘れられたのだろうか?
あの辺の歴史はわかりにくい、どこが古いのかわからないのである。

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小高から浪江にゆく坂の「綿津見神社」もかろうじて残った
これは海岸に接していたからかなり高くないと流された。
これも不思議の一つである。
これだけ高いから流されなかった。
これも古いから津波を警戒して建てられたのか謎である

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この神社の下は津波の水で沼になっていた。
その下は崖になっている。


南相馬市鹿島区の袋村が消えた謎
http://musubu2.sblo.jp/article/61811783.html

posted by 老鶯 at 17:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係
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