秋の短歌10首(粛殺の秋風)

目覚めれば蝉の鳴くかな朝静か母なお生きむ98越えて
我が一人部屋にしあれば秋の雲徐々に移りて流れゆくかな
津波跡沼の生まれて沢瀉の咲きて眠れるトウスミトンボ
縁二つ今年は切れて秋風のさやかに吹きぬ石の黙しぬ
縁二つ切れて秋風静粛に戯言聞かず石は黙しぬ
東京は遠きにあれや我知らず石の心に我は生きなむ
沈黙の石の重さよそは知れな語るも無益秋風の吹く
一時の華やぎ過ぎし青春や新宿に死す歌手のあわれも
釘打ちの木製のバチンコ屋虚しくも費やされにし青春の時
でで虫の休むたき時休むなれまるまり一つ秋の雨ふる
杜甫87
北征 北征 (中]T十句)
昊天積霜露 昊天(こうてん) 霜露(そうろ)積(つ)み
正気有粛殺 正気(せいき) 粛殺(しゅくさつ)たる有り
禍転亡胡歳 禍いは転ぜん 胡(こ)を亡ぼさん歳(とし)
勢成擒胡月 勢いは成らん 胡を擒(とりこ)にせん月
胡命其能久 胡の命(めい) 其れ能(よ)く久しからんや
皇綱未宜絶 皇綱(こうこう) 未だ宜(よろ)しく絶ゆべからず
憶昨狼狽初 憶う昨(さく) 狼狽(ろうばい)の初め
事与古先別 事は古先(こせん)と別なり
姦臣竟?醢 姦臣 竟(つい)に?醢(そかい)せられ
同悪随蕩析 同悪 随って蕩析(とうせき)す
⊂訳⊃
いまや天空に 霜や露が積み重なり
正義の気は ひしひしと漲っている
蕃族を亡ぼす年は 禍を福に転じ
蕃族を虜にする月は 形勢ととのう
蕃族の命運はつづくはずがなく
綱紀は断絶してはならないのだ
思えば去年 慌ただしい事件のはじめ
ご処置は これまでと違っていた
姦臣はついに処刑され
仲間の悪人もいっしょに滅ぼされた
「正気有粛殺」自分の短歌とこれは同意である。秋風はまさに粛殺の風なのである。親戚といっても遠い親戚になるけど今年は縁を二つ切った。何か縁というのもいい縁ならばいいが悪い縁は持続できないし悪い影響を受ける。そして意外と遠い親戚でも縁を切るというのは相当な覚悟が必要だったりなかなか腐れ縁でも切れない、縁を切ることは一大事になることがある。だから結婚すると深い縁になるからなかなか切れない、そしてストカーで殺人まで起きる。殺されるか殺すかそこまで縁を切ることは覚悟が必要になってくる。縁切り寺があるのもわかる。いくら言っても道理もなにもわからない人がこの世には多い、そういう人にいくら語っても無益である。語らない方がかえって真実を示すことになる。結局何か人に教える諭すということが徒労なのである。その道が間違っていても人は聞かない、カルマでも自分で悟ることができないからだ。自分がどう行動したらいいのかわからない、そしてカルマを積み重ねてゆく、またカルマを脱することは相当なエネルギーが必要であり人は楽な方に傾き安い、だからいくら諭しても悪い方でも我が道をゆくとなる。
なんか離婚騒動があり巻き込まれた。裁判になるとかいかに縁を切るということが困難なのか?
意外と縁結ぶのは安易である。恋愛関係に陥るのもそうである。人間は縁を結ぶときはその重大さに気づいていないのだろう。しかし一旦縁を結ぶと腐れ縁であれ何であれ簡単には切れないのである。因縁を断つというのは相当な覚悟が必要になる。縁を切られない限り延々とまとわりつきゆすられ
る。そのために殺人まで起きるのはストカー事件などで起きている。逃げても逃げられないという恐怖であるまさに因縁をつけられて角田のような恐いことになる。あれは親戚関係から因縁をつけられてあれほどの犯罪になった恐怖である。親戚関係というのも恐いものなのである。
まともな親戚も少ないし金がからんでくると恐い、いくら理不尽でも相手はかまわない、なんとか金をとろうとするから殺人までになるのだ。まあ、今回は遠いから縁を切れやすかった。遠いということはすでに縁が何であれ遠のいているのだ。年とったら遠くの親戚より近くの他人でありもう親子でも遠くはあてにならないのである。
秋風は粛殺の風である。最近は雨ばかりふっているから秋雨になっている。
小さなでんでん虫が一つまるまり動かない、秋の雨がしとしとふっている。でんでん虫のように休みたいときには休みたい、自分はそういう生活をしてきた。二日くらいどういうわけか眠りつづけた。時々疲れるのか眠りつづけるのが自分である。自分はずっとそういう生活をしてきた。だから体が弱くてもこれまで生きてこられたのか?会社が過酷だったら過労死になっていた。
そういうふうに恵まれたのはどういうわけか家族の一人がそれを許したことによるのだ。
ただ六年間はその自由な生活のツケが回り塗炭の苦しみを受け続けてきた。
これも自分のカルマだった。そんなに恵まれたままには終わらなかったのである。
人間は必ずカルマを負わされ返還を要求される。母を介護しているのもそうである。
これもカルマの返還を要求されてそうなっているのだ。
ただ六年の苦難をすぎて何か楽になりつつある、運命が転換しつつあるのかもしれない、そんなに悪いことは人間はつづかないみたいだ。悪いことばかりつづいてら生きるのも嫌になるだろう。
運がどこで転じてくるか人間はわからないのだ。運命の転換は必ずしも一人ではできない、思わぬ人との出会いとか何か新たな縁が生まれて運が転換することがある。
その前に悪い縁を切ることが新たな運を作ることになるのだ。その悪い縁を切ることが一大事なのである。
原発事故周辺の変転はすさまじい。それぞれの運命がどうなってしまうのかと思う。
バソコンを新しいのを買った。自分の場合どういうわけか富士通をずっと買い続けてきた。
親指シフトで文章を書いていたからそうなったともいえる。ローマ字だと遅くなるし疲れるからパソコンが嫌になっていただろう。文章をスムーズに書けないとパソコンでも使えないのだ。
windows8はやはり今日セットアップしたばかりだか使い安い、インタ-ネットも前よりずっと見やすく音もいいので英語のニュースを英語で聞いていると音になれるみたいだ。
画面をきれいでワイドだから見やすいのである。
技術は日新月歩だからいつまでも古いのこだわると損する。金をけちっても損する。
なぜならもう老人は金より時間か大事だからである。金をけちっていたら貴重な時間が消失してゆくからだ。パソコンもすでに13年とかたっている。
それでもパソコンはわからないのが多いのである。それだ多機能になってしまった。
通信の面ではまた格段と進歩している。でも自分は今はほとんど遠くに外出しないできないからスマホなど必要ないのだ。動画までパソコンに送り即座にプログなどでアップできるにしても自分は外出しないから必要ないのである。今は家の整理に毎日追われていた。物の整理だけではない、人も整理した。そして整理の仕事は延々と終わらないのである。これまでの情報の整理もあるから整理しきれないのである。
。