2007年11月28日

失われた原生の鹿の声 (蕪村の「三度啼きて聞こえずなりぬ鹿の声 」の意味)


失われた原生の鹿の声

(蕪村の「三度啼きて聞こえずなりぬ鹿の声 」の意味)
 
●鹿に関する短歌
 

湯原王の鳴く鹿の歌一首)
秋萩の散りの乱(まが)ひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遥けさ


さを鹿の来立ち鳴く野の秋萩は露霜負ひて散りにしものを

(舒明天皇の歌)
夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも」


秋萩のうつろふ惜しと鳴く鹿の声聞く山はもみぢしにけり(新勅撰)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
奥山に  紅葉ふみわけ  鳴く鹿の  声きく時ぞ  秋はかなしき」                     
                      猿丸太夫(さるまるだゆう)  古今集


えは(芝松の)迷ふ葛の繁みに妻籠めて砥上原に牡鹿鳴くなり

をじか鳴く小倉の山の裾ちかみただひとりすむ我が心かな                                      西行

夕づくよ小倉の山になく鹿のこゑのうちにや秋はくるらん
                 (紀貫之 古今集)
小倉山みねたちならし鳴く鹿のへにけん秋を知る人ぞなき
                 (紀貫之 古今集)

      
      ようようと鹿は鳴き
食野之苹   野の草をはむ
我有嘉賓   我によき賓(まろうど)あれば
鼓瑟吹笙   瑟を鼓し笙を吹かん


曹操
 
●知床で聞いたエゾシカの声
 
鹿の声の遥けさ−万葉集時代だと鹿は身近な動物でありどこでも見られた、それも奈良の鹿とは違う野生の鹿だから遥か遠くからも鹿の声は聞こえた。今は野生の鹿は見れないし鹿の声を聞くこともなかなかできない、鹿の声を私が実際に聞いたのは真冬の知床だった。雪のなかでエゾシカが群れてかたまりそのときピイ−と鋭い声で鳴いたのだ。
 

知床の雪の斜面(なだり)に踏み入りて鋭く鳴きぬ鹿の声かな

知床の巌をそそりて流氷に鹿啼く声や凍てりけるかも
 
これはエゾシカだから本土にいる鹿とも違っている。「さを鹿の来立ち鳴く野の秋萩は露霜負ひて散りにしものを 」これなども知床のエゾシカと相通じるものがある。霜露が知床では雪になっているのだ。鹿は実際霜露おいて死ぬこともあるし大雪の時は実際にエゾシカもかなりの数死んだ。それが自然の摂理で鹿が減るので植生が維持される、鹿は実際は貪欲であり繁殖力が強いから木を食いつくすとか今や尾瀬にも進出して荒らされると問題になっている。鹿は繁殖力が強いから万葉時代だったら相当な数がいたのだ。原始時代だったら食料にしていたから鹿は極めて身近な動物だったのだ。「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも」鹿が鳴いていたのに今日は鳴かないというのもそれだけ身近に鹿がいたからである。毎日のように鳴いていた鹿が今日は鳴かないというのでいぶかしく思ったのである。西行でも山に住めば鹿が身近であり鹿の声を聞いてこの歌を作った。ただこれは実際に小椋山の近くに住んだかどうかわからない、我が心かなとなるとそういう気持ちになるということだからだ。鹿の鳴く声を聞いて一人住むのがふさわしいとかの意味でありそこに住んだとはかぎらないわけである。
 

●蕪村の三度啼(な)きて聞こえずなりぬ鹿の声の意味
 
江戸時代になってもやはり鹿の声を聞いていた。「三度啼(な)きて聞こえずなりぬ鹿の声 」この句の不思議は時間の悠長な流れと江戸時代の沈黙空間のなかでこそできた句である。「静けさや岩しみ入る蝉の声」になると蝉の声は鹿の声とは違い、一面騒々しい声、鳴き声が満ちて圧倒する。その声のすべてが岩にしみ入ってゆく、ここには時間の流れはなく空間のなかで蝉の声が岩という一点に凝縮されてくる。これも対象的なのである。三度啼くとは三回啼くことにより大自然の沈黙に帰ってゆく、三回啼くことによって十分に大自然の沈黙空間に吸収される、二回でもない、三回ということが味噌なのである。四回だと多いから緩慢になる。三回ということが音楽的にも無駄のない音となっているのだ。三回啼くことにより十分に意はつくされたのだ。三回啼くことにより余韻はさらに深くなる。そこに江戸時代の悠長な時の流れと沈黙と深い闇につつまれた世界の背景があってこの句もできたのである。この簡単な句のなかにやはり岩にしみいる蝉の声と同じ沈黙の空間があってこそこの句もできたし生きるのである。現代の騒音社会では作りえないものが残されたからこそ深い現代にも癒しとなる句となっているのだ。つまり江戸時代の時間と空間と沈黙に帰らない限りなかなか江戸時代の俳句でも鑑賞できないのである。
 
今や時間の流れは百倍になり絶え間ない騒音のなかで自然の音はかきけされる。大自然で営まれる生命へ共感することができないのだ。だから現代の芸術は浅薄になっている。大自然に共鳴できないからそうなっているのだ。この句はだから原生の大自然を自ら意識しないと今や鑑賞できないのである。原生の時間と空間と沈黙のなかで生まれた句だからである。三回啼くということのなかには悠長な時間のなかで聞こえた音でありそれはせわしく追い立てられる音ではない、大自然のなかで発せられた自然のなかで生きるものの真率な声である。それは人間の悲鳴でもない、恨みでもない、嘆きでもない、極自然なる声である。現代から聞こえるのは悲鳴であり雑音になっている。自然の声は野鳥の啼く声でも何でも人間の声とは違い真率なる大自然と調和した声だから魅了されるのである。まさに大自然を舞台に奏でる音楽だからこそそのひびきは深い感動となって残るのである。

 

現代は時間も空間も沈黙も奪われた時代である。だからそれらを自ら作り出す必要がでてくる。旅するにしても旅する時間とか空間がかえって便利になりすぎて奪われたからかえって不便な旅を作り出さねばならない、歩く旅や自転車の旅になるとまさにいかに日本でも広いものかと思い知らされるのだ。文明とは皮肉なことだが自然から離脱してゆくことである。文明が発達すればするほど原生の自然の声は聞こえなくなるのである。雑音とかばかりが大きくなり騒音と喧騒のなかに埋もれてしまう。だから雑音を文明を遮断しないと本来の自然の音を聞くことはできないのである。それで上野霄里氏のように原人間に目覚めたものは文明否定がどうしても過激なものとなりアウトサイダ−化するのが現代なのである。カルト化した宗教団体もまさに文明の雑音化した異様なものとなり世を席巻するのもそのためである。文明とは原生の真率な声を殺すのである
 
雪深き知床の奥鹿歩む足跡残り月影さしぬ
 

「静けさや岩にしみ入る蝉の声」が現代に問いかけるもの(沈黙無き文明の音)
http://musubu.jp/jijimondai35.html#semi

 
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