便利すぎる文明の不安と危険
(電気の貴重さは蠟燭や薪や炭のように実感できない)
●社会が目に見えて把握された自給自足の時代
人々が着る衣服は大部分家庭においてつくられた。家族の者たちは通常、羊の毛を摘むことにも羊毛をくしけずりつむぐことにも機織りを使うことにもなれていた。ボタンを押して家中を電灯の光でみなぎらせるのではなく照明をうる全過程は動物を殺してその脂肪を精製することから蠟燭のシンをつくってこれをシンの中にひたして?燭をしあげるまで面倒な手順を逐一踏んで行われるものだった。
麦粉、材木、食料品、建築材料、家具から金属器物、針、ちょうつがい、金槌などの類までその供給は近くで行われそこがしばし隣近所の寄り合いの中心であった製作所で行われたのである。
知識を授けるための実物教育をどれだけやっても農場や庭園で実際に植物や動物とともに生活して世話するうちに農場や植物に通じるその呼吸にはとうてい代わりうべくもない・・・
(学校と社会-デュ-イ)
今なぜまともな人間形成ができないのか?デュ-イが学校を批判したことは当然だし今でもそうである。学校は人間教育の場ではない、学校という場は今では社会から切り離された場なのである。社会と結びついていない、知識だけを教える場所である。その学校を批判しても現代が世界的にも学校なしではありえない社会だから学校を廃止して別なものなど作り得ようがないのだ。
●電信柱の時代
戦後十年くらいまでは燃料が炭であり江戸時代から自給自足の生活の延長だったのである。だから自分の子供時代の経験は貴重だった。電気は裸電球一つくらいで使っていない、なぜか自分の家では駄菓子屋をはじめてその前に電柱が一本あった。そこは舗装されていない、その電柱が不思議な存在感をもってよみがえってきた。なぜなら電柱というものがその当時今とは違って何か文明の象徴のようになっていたかもしれない、その電柱は木の電柱だっかたことも当時を偲ばせる。この電柱のあるところにベンチがあり子供が群れていた。キャンディなどを食べて群れていたのである。この電柱の思い出は水害のときこの電柱に流れたものが流木がぶつかり自分の家が流されずにすんだのである。
この時の家は平屋でありトタン屋根であった。ブリキ屋が近くにいたというのもそのためである。
賢治の童話の「月夜の電信柱」で電信柱が歩く話しがあるのはやはり電柱が何か今とは違って存在感があり人間的なものに見えたからかもしれない、
「ドッテテドッテテ、ドッテテド
二本うで木の工兵隊
六本うで木の竜騎兵
ドッテテドッテテ、ドッテテド
いちれつ一万五千人
はりがねかたくむすびたり」
木の工兵隊、六本うで木の・・・ここで電柱が木であり電信柱が軍隊に見えたというときまさに文明が田舎の町に軍隊のように進出してくる様を描いている。まさに電気そのものが文明化するものだった。
はじめて電燈がついたころはみんながよく、電気会社では月に百石ぐらい油をつかうだろうかなんて云ったもんだ。
月に百石ぐらい油をつかうだろうかなんて云ったもんだ。つまり電気を起こすのにどれくらいの資源を使うのか当時の感覚で計算していた。百石と計算するのはまるで江戸時代の感覚が残っていたということである。電気もその頃人間的感覚でとらえようとしていたのである。
現代ではあらそるものが人間的感覚では計り得ない世界となっている。その規模も巨大であり電気を計るなどできない、特に原発になると全く素人には想像もできないアンタッチャブルな世界となっていたのである。
●人間的感覚でとらえられない世界の危険
現代の問題はデュ-イの言うように具体的な事物、存在から世界を把握できない、世界観を確立する場がないのだ。そして学校では非情に抽象的場としてあり現代文明を象徴した場所なのだ。そこで人間形成が行われない、むしろ村社会での場の方が人間形成しやすい、そこには確かに人間的などろどろしたものがあるがやはり人間的な場として社会を知り人間形成するのである。
学校ではやたら数字ばかりおいかける。理科系では数学でも物理でも化学でも数字が一番大事なのである。膨大な数字の世界として世界を認識する。それはまさに抽象的世界として世界を認識する。
それが最初の学問の場となっている。現代は極めてすべてが抽象的な世界であり人は数字化してとらえらているからまた学校も社会の一部だからそうなりやすい、数字的観念として社会をみるようになってしまう。
現代が電気の時代というとき、電気がどうしてつくられるのか?それを知り得ることは普通はできない、
ボタンを押して家中を電灯の光でみなぎらせるのではなく照明をうる全過程は動物を殺してその脂肪を精製することから蠟燭のシンをつくってこれをシンの中にひたして
こんなふうにして照明が得られるということを感じることもできない、だから現代はあらゆる所で無駄が多すぎるのだ。照明をうるのにも動物が犠牲になるとすればさらに照明は貴重なものとなる。江戸時代の蠟燭もこれと同じ様に貴重だった。そういう感覚が現代から育ちようがないのだ。毎日大量のゴミをなげねばならない、ゴミの処理に追われている。電気もボタンを押せば使える、たから電気に対して貴重なものだという感覚が起こらない、魔法のように電気はボタンを押せば使えるという感覚になる。ところが実際は電気を作ることは途方もない労力と危険があったのだ。火力発電所にしても石油を手に入れるのに中東まで行って命懸けで得なければならないし原発でも一旦事故になれば国が滅びるほど危険なものだった。途方もない危険の中で電気がつくられていたのである。でもそれを認識する方法がなかった。現代は一個人など計り得ない世界で経済も動いている。
●数字化抽象化された文明社会の不安
原発はその象徴だったのである。放射能にしてもただ数字としてしか計測できない、これも極めて抽象化されたものであり人間的五感で感じえるものではない、ただ数字としてしか感じられないのだ。別に電気だけではない、あらゆるものが数字としてとらえられている。銀行に貯金している金でも実際は数字にすぎないという、だからいつかその数字はゼロとなっても不思議ではない、かえって米俵を蔵に積んでいるとか、何か物でもっている方が安心だともなる。
昔の燃料だったら火をおこすのに大変な労力がかかった。薪であれ炭であれそうである。そしてその燃料の材料は近くの森であり山にあるから人間的感覚でとらえることができた。炭でも薪でも使うときは無駄にはしない、無駄にできないのが昔だったのである。山から薪をとるにも運ぶのにも燃やすのにもボタンを押してできるものではない、そこには人間の労力がかかっていることを肌で感じていた。前にも書いたけど人間でも自ら労働してみないと労働の価値を実感し得ないのである。汗水たらしてみないと労働の価値を実感しえない、家事でもそうである。今でも機械で便利になっても以前として人間の労力がかかり価値を生み出している。
電気は膨大な無駄が生じる。無駄をしても無駄を感じないのである。こうして文明がすべて人間的感覚から離れてゆくとき原発でもあるとき事故が起きてとりかえしのつかない事態になる。グロ-バルな影響すらある。世界が崩壊するという危機が起こる。誰も原子力発電の構造とか原理とか知り得ようがない、そしてある時突然事故が起こりメルトダウンして手のほどこしようがなくなり住むことさえできなくなってしまう。
便利すぎる文明は実は安価なものではなく安全なものではなく大きな危険がひそんでいた。それは世界を崩壊させるほどの危険でもあった。あまりにも便利なものを追求することは危険があった。
では江戸時代にもどれというのか?それはまた違った問題としてある。このように便利すぎる時代と過去を比べて現代を相対化する作業のなかで未来が模索され見えてくるものがある。