2006年05月20日

夏菊(認知症は関係障害?−母性本能は強烈なエゴか?)


千輪の夏菊ゆれて走りさる

民間宗教で死者とあわせることがある。死者を呼び死者に語らせる。三歳くらいで死んだ子供のことを80歳になってもこだわり忘れないということは男にはわからない母性本能の強さであり母親は子供のためならなんでもする耐えるとかいうのもそうである。その死んだ子供があの世で死んだ夫と歩いたり遊んでいたという、それで涙を流して聞いていた。その人はまた早く母親に死なれて大変な苦労したので母親がでてきて苦労かけたことをわびて体をさすってくれたという、こうした民間宗教をいちがいに悪いとか否定でなきい、これは宗教ではなく一つの心理療法とにているのだ。これによって悲しみがやわらげられたり死者と話ができるという死者がまだ生きているということになる。この死んだ子供のために地蔵を建てたという、地蔵はこうして死んだ子供を供養するものが多かったかもしれない、心理学と宗教は極めて共通したものがある。これは実際違ったものである。キリスト教でも仏教でも宗教の目指すものがあまりにも高すぎて実行できないものである。

一方多くの人が求めているものは非常にわかりやすいものである。病気を治してもらいたいとか商売繁盛とか具体的な利益になるものを求める。キリスト教にしても眼をなおす聖人とか胃腸病にきく聖人とかいろいろご利益をさずける聖人がいたりする。民間宗教的なものが宗教には常にあるのだ。これをいちがいに否定することはできない、それで多少なりとも心がいやされれば悪いことではない、ただこれが宗教団体になるとこうしたご利益を目指すものが創価などのように政治化して権力化してゆく、これはカトリックの歴史でもそうだった。これが組織的ではなく民間宗教的なものとして個人的な家族的なものとしてあればそれほど否定できないものである。ただ地獄に落ちるとか先祖霊がついているとか脅しになるとペテンになる。そして宗教は金をとることをしないのが理想である。本を出すとなるとそれは金がかかるから組織をもった団体しか出せないしそれにだまされることになるのだ。不治の病が治るとか本に出して信用させることも金があればできることになる。団体化することは権力化することだからよくないのだ。

母性本能は誰にでもありこれをやたら称賛することもできない、一面母性本能はエゴである。女性の強烈なエゴなのだ。これつきつめると自分の子供は自分の体とも一体であり自分のものだとなる。自分の所有物のようにしてしまうのだ。母性本能とか血縁からなる家族は自分の子供とかしか眼中にないから強烈なエゴである。だから宗教は本来そうした血縁とかを否定した別な人間関係を説いたのである。でも肉の結びつきを離れることを説いたのである。でもこれは否定しがたいしあまりにも目指すものがかけ離れているから結局民間宗教の延長として巨大宗教団体化しているのだ。認知症というのもその人生の最後に様々なエゴがむきだしになってきて起きてくるのではないか?認知症が関係障害だというのもそのためだろう。若年性の認知症と老人の認知症は違う、老人のボケは人生の総決算のように起きてくることなのだ。今まで隠れて抑えていたものが病気とともにむきだしになりそれが相手の暴力や暴言へと歯止めのきかないものとなる。だから単なる脳の欠陥とか身体の病気からだけではないものも大きく作用しているからその治療も心と関係しているから薬だけでは解決できないのである。

今のところ自分の家族は関係障害の原因を争う相手がいなくなったので盗ったという妄想もなくなりやけにおとなしくなってしまった。嫁と姑が争っているとする。姑が認知症になったらもう一度家の家事とか姑にやらせると認知症の問題行動がなくなるかもしれない、役割喪失とかからボケになるからである。
この記事へのコメント
>心理学と宗教は極めて共通したものがある。これは実際違ったものである。キリスト教でも仏教でも宗教の目指すものがあまりにも高すぎて実行できないものである。

心理学も宗教も魂(深層心理)について理解を深め、暗い闇の中で一筋の明かりを見つけて、その方向に進む為には有力な学問である事は間違いないと思います。ズバリ、的を得ているからでしょう。
しかし、心理学は実験など科学的根拠に基づいて
肉付けしてゆくもので。宗教は根拠も信憑性に欠けており、魂が弱った時に求め、ただ生活習慣から「信じるかしかない」と思わせるような仕組みになっているからだと思います。一種の心理療法かもしれませんが、非現実的な部分もありますので、やはり混同すべきではないと思います。
しかし、聖書は時代が変わっても共通した人間の心理に基づき、結果からフィードバックして言動を適切な仕組みに変化させ、神様の技を証明しようとしますので納得させられる事が多多ありますね。

>ただ地獄に落ちるとか先祖霊がついているとか脅しになるとペテンになる。

何とも言えません。亡くなった人と話をした事がないので、死後の世界も分かりませんし。
これも、信仰すると決心したならば信じるしかないのかもしれませんね。現実的なのは良い事ですが、それが人を傷付ける事もあります。何故なら、宗教家も人間だからです。
真光は先祖霊云々で、自分達の行いの悪さを生きている人間や先祖や死者のせいにして偽善や弱者を装いますから卑怯極まりなく恐ろしいものです。
病気になった方が神様や先祖を心の頼りにし、それで安定するならば、それも非薬物療法ですから受容すべきだとは思いますが、明らかに詐欺行為だと分かる宗教は病院や施設には入り込めないはずです。
懸念するのは在宅で療養し、介護なさっている弱者です。心が弱くなった時は、思考・判断の為の余裕を無くしてしまうでしょうし、足元をみて目の前に禁断の果実をぶら下げてきますから。
弱者が守られる世の中になれば良いのですが…。
Posted by たまもと あゆみ at 2010年07月21日 22:32
(追記)
現実は利害関係のない宗教なんて存在しないという事でしょう。祈る事で病が癒えれば医者要らずです。昔、病を治した聖人がいたから(?)現代も真似をしたインチキ役者聖人が存在するのでしょう。
人と人は言動が伴った利害関係のない「思いやりや真心」で癒しあい、支え合うからこそ、明日へのエネルギーの源へと繋がり生を全うできるのだと思います。
Posted by たまもと あゆみ at 2010年07月22日 07:39
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]