金は思った以上に公平に分配されるものなのかも
(金の総決算も還暦をすぎるとやってくる)
●金の貸借表も偽ることができない
死んだ人はもう死んでいて何の力もないと思われる。でもそうでもなかった。前にも書いたけど兄が死んだのは20年も前になるしいろいろ事情があっても今頃金についてまた兄のこと思い出した。
「母の金の半分は自分がもらえる」と言っていた。それは確かにそうだった。ただ20年もたって忘れていた。でも最近母の金を自分で手にしたときまたそのことを思い出した。そしたら意外とその言葉も重いものだったとことに気づいた。別に死んだのだから自分のものにしてもいいしそれをとがめる人も今はいない、でも何か兄がそう言ったので自分だけ使うのに心がとがめたのである。おそらくもう別に自分が全部もらっても誰もそれをとがめる人はいない、いろいろ事情があってもそれを知る人もいないしとがめる人もいないからだ。ただ娘がここ何年かつきあいができてそのことを考えた。
音信不通だから関係ないと思っていたが6年前から家にも来たので考えるようになった。
その娘には孫もいるし高校に入るので金がかかると言っていたのでそのことで兄からの金だといえば兄もうれしいし娘も孫も喜ぶかと思った。しかしまたそこにはいろいろ問題がある。
ともかく金でもめるのが人生であり金にはじまり金に終わるというのが今では人生となっているような時代である。あと何年生きるのか金次第だとかなるか医療費もかかるから病気になったら金がないと治療費がないと生きられないと早く死んだ人もいた。これも金で助かる命も助からなかったとなる。老後でも長生きになれば金が必要になる。それで年金でもめることになる。最低で10万もなければ生きていけない、それだって今の時世ではむずかしい。何か還暦をすぎると金でも貸借表が明確にされ決算が迫られる。金の面でも決算が迫られる。借金を隠して事業の成功者を装っていた人も嘘つけなくなってくる。不摂生した人は病気になりやすいとか健康の面で現れてくる。それでそんな不健康な生活をして60代くらいで病気になるのはその人が悪いしそんな人に保険料を払わされるのはごめんだという政治家もいた。
事業で借金した人も見栄を張り無理をしすぎためである。別に質素にやっていればそうはならなかった。病気になったから借金したとかではない、成功を装い見栄を張り借金をしていたのである。そういうツケが最後に逃れようなく払わされる。最後はそうした借金でも人生のツケが支払わされる。それは誰にでも起きてくる。自分も全くそのツケを支払わされた。
ここ6年の苦しみはそうだった。別に悪いことを特別したからでもなかった。成り行き上そうなってもやはりツケを支払わされた。苦が楽の元というとき苦しい人生はあとで楽な人生になる。
だから今苦しいなと思ってもがまんしていれば後で楽になる。今楽をしているとあとで苦しくなる。だから苦しいから嫌だと苦しいことをさけていると後で苦しみをさけられなくなる。いろいろ事情があるにしてもニ-トなんか今はいいにしてもあとで苦しくなるのだ。ただ人生は目先のことに追われ
長い目で見れないのである。今ここで我慢して何がいいことがあるんだとはならないのである。今がすべてになるからである。
●金の分配も公平な面がある、その管理は神がしているのかも
金は運だと前に書いた。fortune(運、財産)だったと書いた。しかし意外と金は公平に分配されているかもしれない、金なんか不公平だよ、濡れ手で粟でもうけるものもいるじゃないか、株などでもそうだよ、公務員はもらいすぎだよ,手厚い社会保障あるじゃないかと不公平ばかり言われる。
でも何か金というのはごまかせない正直なものでもある。濡れ手で粟と言うのは別にして一億円とか以下の金については公平化もしれん、大金持ちはこれは普通の人には計れない金でありイメ-ジすらできないのだ。なぜそんなに金があるのだとその生活すらどういうものなのか知り得ないのである。だからそのことについてはいろいろあっても書けないのである。例えば一千万くらいの金だと何か公平に分配されているように見える。母の残した金はそもそもどういう金かと言うと国民年金保険だった。これは2万5千円だけど一銭もかけていないのだから無料でもらっていた金だったのである。
35年前頃もらったのは一銭もかけなくてもらっていたのである。それで35年も積んでいたら一千万とかなったのである。だからそれは国民の税金をためた金だともなる。だからこの一千万は誰のものかとなるとその財産をもらう親族のものとは限らない、国民のものだったともなるからだ。
その金が全部親族にわたるというものも不公平にもなる。法律では遺産が親族にわたるのは公平でなくても法律上の規則として平均的に過ちがないものとして決めたのである。だからそこにも不公平がある。
自分が経験したことでは何か奇妙なんだけと公平だったのかもしれないと今は感じている。一部は不正であり刑務所行きの犯罪者が盗ったとしてもそれまた変な話だけどうにもならなかったのかとさえ思う。ただこれは犯罪だから責められずにはいられない。他にも金は消えたがそれは公正なものではなかった。だからどこかのプログで書いてあったがそういう不正に金をもらっものや得たものは必ず返還を要求される。その本人が知らなくてもそのツケは払わされる。他者の取り立てが過酷なものになり請求されるとか書いてあった。金は意外と人間が管理しているようで神が管理しているような所もあるから公平な面も明かにあるのだ。不正な金で本当に金持ちになるのは無理だろうし良心の呵責を感じるだろう。何らか分配すべき金だから分配しないと何か悪いことが起きてくるともなる。
金は欲しくてもみだりにそんなに大金をもてるようには思えないのだ。確かに遺産などがあるがそれももめるし災いの元となり独り占めにはならないのだ。
●民主主義の平等原理がかえって不公平にした
金は遺産でも親族に法律で割り当てられるのは不公平である。まず兄弟で平等にしたのはかえって平等でなくしたのである。なぜなら実家をになう人はそれなりに家を維持するために財産も必要であり農家では田を分割したらやっていけなくなる。実家はまた墓の管理などもするし兄弟でも違った役割が昔からあった。だからそれを否定したことはかえっていろいろな問題を引き起こす元となったのである。つまり長い歴史で受け継がれたものを否定すると必ず何か問題が起きてくる。長子が重んじられたのはこれはどこの国でも同じであり何か意味があったのである。民主主義がそういうものを古いものとして否定したとき一見平等に見えても不平等にしたのである。戦後の民主主義は何かそうした古いものあらゆる面で否定してしすぎたのである。
例えば介護でも実際に介護している人が多くもらえないというのは変なのである。兄弟で何もしない人が平等にもらえると言うのはかえって不公平なのである。介護してくれる世話してくれる人がいれば他人でもその人の財産を得る権利がでてくるのだ。それを自覚しない人が多すぎるのだ。自分の経験では全く何もしないのに遠く離れたところから金だけを要求してくる。近くの人でもそういう人が多い。そこで親戚関係でももめる。遠く離れて介護でもなにもしない兄弟はそんなにもらう権利がないのである。介護は結構大変だし何もしない人が財産を得るのは不公平なのだ。例え打算でも介護している人はもらって当然なのだ。まず水一杯も運ばない人が財産の権利を主張すること自体おかしなことなのである。自分が経験したことは何もしない人がただ金の要求、権利だけを主張してくる。
戦後民主主義の弊害も大きかった。権利だけを主張してやることをやらない人が増えすぎたのである。それはあらゆる面でそうだった。だから犠牲的精神とかはなくなった。相手を犠牲にしても自分は絶対に得をするということしかないのである。金にならないこと絶対にやらない、人だけ助けもしない、自分の場合、得することであり金になることでもやってくれなかった。そんな人がどうして商売でも成功するのだろうか?人からしぼりとることしか考えて考えていないとしたら成功するはずがない。やはり戦後の民主主義がこうした人間を作ったのである。それはまちがった民主主義教育だったのである。