2006年05月18日

延齢草(ボケにならないだけで善幸)

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いくつもの芍薬の芽をなでるかな

石一つ人悩まさず延齢草

今日も行くこの道静か猫歩み墓所の前なる白き藤かな


九〇歳以上になり認知症、ボケにならない人は何か功績がなくても称賛に値すると書いた。ボケは人を悩ます、絶え間なく悩まし苦しめるのだ。人間は善幸をすることはない、罪を犯さないこと、悪いことをしないことが人に迷惑をかけないこと人に苦しみを与えないことが最大の善幸なのである。実際はそれが一番むずかしいのだ。自分自身でも善幸を積極的にやろうとして人に迷惑をかけ人を悩ましたのだから積極的に善幸しようとしてもできないのだ。それは他者に災いを与えるのだ。

石一つ人悩まさず延齢草

これこそまさに理想の姿である。90まで生きて認知症、ボケにならない人は大きな善幸を他者にほどこしている。一方認知症になりボケになった人は重度になれば早く死んでくれと言われてやっかいものとして死ぬことを回りから望まれるのだ。この差はあまりにも大きいから認知症、ボケにだけはなりたくないと思うようなるのは当然である。ボケと単なる耄碌は全然違ったものだったのである。

これから認知症、ボケ老人が250万人とかてるとこれは社会的負担が大きすぎる。介護者500万というのも空恐ろしい数である。少子化で90まで生きる時代になると一人っ子が多いから親と祖父母と4人を介護してめんどうみるとか大変な負担がかかることになる。これは次代のものに大変な負担をかけるし健全な社会の発展すら阻害される深刻な問題である。ボケになったら子供には迷惑かけないと言っているがだめである。施設に入れたとしてもその費用とか他者の世話になり大変な迷惑をかけて死んでゆくことになるのだ。

ではお前はボケにならないのか?というとこれは誰も保証できない、立派な宗教者、クリスチャンでも修道女でも学者でも画家もなっているから自分もなる可能性はあるのだ。誰もこれは保証はできない、原因が本当はわからないし体からきているとすると心臓病や脳卒中のようにボケにもなるからだ。ただボケにならないように祈り励むほかないのだ。その一つが無償で出しているホ−ムペ−ジと今のところはプログで創作活動をつづけることなのだ。
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