2007年11月19日

草の花(蟻とキリギリス)

kusatubo1.jpg
 
我が挿しぬ小壺二つに草の花
 
趣味というのは別に習うものでもなく決まったものでもない、趣味はその人によって作り出されるものなのだ。だからその人によって違ってくるものである。生け花なども別に家元で習わなければできないかというとそうでもない、俳句でも短歌でもそうである。ただ最初のうちは言葉の用法などは添削してもらうといいかもしれない、何でも基本が大事だからだ。その他、趣味は自己流で見いだすものなのである。そして趣味は金をかけなくてもできる、生け花は花を買うと高いからやりにくいが別に無料の野の花を摘んでもできる。花瓶は安いものでいくらでも売っているしそれがつまらないものとはならない、高価な壺も必要ないのだ。これらの竹細工は百円ショップで買ったものだし花瓶も二三百円とかであるがなかなか形など面白くこの花をさすにはあっていた。
 
結局人間趣味でも実際すぐにはできないのことが最大の問題なのだ。将棋やろうかとしたら子供のときすでに基本ができなければできないしあらゆるものがそうなのだ。俳句短歌でも若いうちからへたでも作り続けなければならない、そのうちコツが会得されてくる。蟻とキリギリスのことをよく言うけどキリギリスには老年になったからといって簡単になれないのだ。蟻になることは容易でもキリギリスにはなれない、楽器一つ弾くにも若いとき相当入れ込んでいないとものにできないし若いときキリギリスとして歌っていないものは老年になっても歌いないのだ。蟻として働いていたばかりの人は老年になって歌うこと遊ぶことができないのである。キリギリスは確かに冬(老年)になって貯えがなくて飢えて死ぬかもしれないが蟻は歌うこと遊ぶこともできずボケになる、認知症になるという恐怖が高齢化で現実化してきたのである。なぜなら高齢化は働く年齢が過ぎてもそのあとが長いからである。その時歌いとか遊べといってももうできないという人もかなりでてくるのだ。自分の場合は遊びが人生として例外としても遊びに自分なりの趣味をもつにはかなりの年期が必要なのである。ただ団塊の世代は豊かな時代の先駆けを生きた人が多いから趣味をもっている人が多い。遊び上手なのである。だから新しい高齢化社会の文化を作る可能性はある。
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