2013年06月14日

睡蓮と鯉


睡蓮と鯉


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ぽっかりと口あき浮くや鯉三匹
睡蓮や鯉あどけなく顔だしぬ
睡蓮や鯉三匹浮き顔だしぬ


ゆうたりと鯉の泳げる優雅さや睡蓮咲きて波紋広がる

この池に睡蓮咲きてその岸に木陰のなして訪う人もなし
ゆうたりと三匹の鯉の泳ぎつつ急がざるかな睡蓮の咲く
赤と白睡蓮の影池写り夢心地かな調和し咲きぬ

夏菊の白より黄色に変わり咲く原町に来てまた帰るかな

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あそこの池にまた行った。睡蓮が咲き鯉がゆうたりと泳いでいて顔を出している。それがなんともあどけなくてんやされた。鯉は決して急いで泳いだりしないその泳ぎ方が何とも優雅なのである。それはまさに自然と調和しているからなんともいえぬ美を作り出す、水と調和して花に調和して回りの自然と一体となるのが自然の生き物なのである。人間は唯一自然と調和しない生物なのである。その点で人間は動物にも劣っているとなる。この池にいるとき脱世間になりここが天国のように思えた。

自分がここ6年間はまさに地獄だった。会ったのは地獄の人間だった。ただ苦しめられただけである。これほど人間は非情なのかとか悲惨だった。だから確かに津浪で無惨に死んだ人が多数いたけどこうした人間の残酷な非情さがありそのために神が怒ったとも思えたのである。勝手な見方にしろ何か人間は本当に金ばかりもとめて非情になってしまったのである。そういう人間界に対して無垢なる自然が怒ったということもあるかもしれないのだ。


原町というといつも不思議に思うのは相馬市と比べて感じが違う、自然まで感じが違ってくる。何か明るい新しい感覚がある。街の形成にはやはり歴史がかかわっていてそれが雰囲気を作り出している。原町はいち早く近代化した街だからそういうモダンな感覚の街になるのだ。相馬市はお掘りと石垣くらいしか残っていないにしろやはり城下町なのである。だからなにかしんみりとした古風な感覚になる。この相違は長く住んでいないとわからないだろう。千年の都、京都ならそれは外から来てもわかるがこんな小さな街ではわからないのである。ただ他の小さな街でもその特徴が一回くらい行ってもわからないだろう。やはり時間で積み重ねられた歴史がわからないのである。外国旅行になると特に歴史が長いからわからなくなるのだ。


睡蓮の赤と白のように夢心地に咲きたい、そういうふうに夢心地に咲いていることも人間にはないだろう。恋愛でもたちまち色あせて生活の垢がこびりつき争いとなり離婚が三分の一となる。つまり男女の仲も夢心地だったのはほんのわずかな時間だったのである。すべてが人間はたちまち色あせて汚れてゆく、今は金に汚れるのが一番多い、頭なのかが金、金、金、・・・しかなくなる。
人を見たら泥棒と思えは変わらなかったし今は人を見たら金と思えしかない、こいつからいくら金とれるのだとかしか頭にない、この辺もただ結局最初から原発の金をめぐってはじまり今も補償金でもめている。これも金、金、金だったのである。地獄まで金を追い求めているのが人間である。いお前もそうじゃないかとなるがある面ではそうである。でも年になると金より別なものが価値帯びてくる。普通に食べて着て住まいがあるならそれほど他に求めるものはなくなる。一番欲しいのは何かとなると信頼する人だったりものを見る目だったり時間だったりする。それらは不思議に金では買えないものだったのである。金を求めたが人生の最後になると金で買えないものが貴重になる。だからかえって金だけを求めたものが間違ったともなるのだ。

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