2006年05月17日

白藤(文学はカルタシス?)

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細りゆく老いる身あわれ白き藤

裏通り猫の歩むや白き藤

我がなくば生きるもならじ悲しさや今日もよりそふ認知症の姉

幾歳を生きる身ならむ悲しさや白き藤咲き我によりそふ


NHKで認知症のことを良く報道している。今朝も若年認知症のことを報道していた。一見みるとあの人のどこが悪いのかわからない、でも自分の名前や計算できないのだからやっぱり同じ症状なのか?あれだけ普通にしゃべれるのにそういう子供でもできることができないことがこの病気の特徴なのだ。若年認知症と老人の認知症は症状はにているのだが違っている。若年認知症の方が質が悪いのか?ガンのように若いと進むのか、それよりも働き盛りになるから悲劇的なのだ。老人は死をまじかにして起こるから同じ症状でも違っている、脳リハビリすると回復するとかあり回りの人のあたたかい接触で回復するとかがある。若年認知症にはそれがないみたいだから悲劇的なのか?ちょっとテレビで見ただけではわからない面があるのだ。

老人の認知症は確かに悲劇的なのだがなんか喜劇的にもなる。これは高齢化で脳が老化しておこりやすいが若年認知症の原因は何なのか、正常な脳が老化ではなく突然機能障害を起こして脳が萎縮してゆく、だから悲劇的である。ただこのアルツハイマ−は病気なのだから薬も一部きいてきたとか将来的に直るものなのか、原因がわかればなおるものなのなのか?疑問なのはこういう認知症とかいう記憶障害の病気というものが過去に歴史的に存在したのかということである。これは現代になって突然生まれたものなのか?とすれば現代の環境の結果なのか?外部的要因、アルミニウム汚染の結果だとか何か現代文明が影響してなっているのか?老人の場合は脳の老化が関係しているからそこだけは原因がはっきりしている。若年認知症はそれがないとしたら何なのか不思議である。

これまで認知症をテ−マにずっと書いてきた。ここで俳句とか短歌として文学化できたのも比較的軽いし回復したから書けている。文学にはカルタシスになる。

カルタシス・・・浄化と約される。一般的に苦痛や悩みなど言葉を出して表現すると苦痛や悩みを解消できることをいう。精神分析の歴史において、その初期段階では抑圧されたり、差し控えたりしてきた感情を表出することの治療意義を強調した。

認知症の家族や介護で苦しむ人々の気持ちが多少わかり同情するようになった。妻や介護する家族が毎日泣いていたというのがわかった。自分も泣いていたからだ。それほど認知症とかは残酷な病気なのである。そもそも老化するということは血管が異常に浮きでたり体が弱ってゆくことだから悲惨である。ただそうした老人にもカルタシスとしての文学はなぐさめとなる。かえって深い見方が生まれる。

しかし認知症とかの重度になるとカルタシスとしての文学も成り立たなくなる。人間が壊れるとかあまりにもひどすぎるからだ。これが人間なのか?というショックであり見たくない接したくないと身内すら思うようになる。これはハンセンシ病よりひどい状態である。暴力、糞をぬる、食べる、ふりまく、これを家族で看護できるのか?人間ではない豚になっているではないか?こうなったら文学としてのカルタシスも成り立たなくなる。そこには嫌悪感しかなくなるのでは?

裏通りを猫が歩むのはあっている。その裏通りに白い藤が咲いている。毎日通うのはこの裏通りである。ここの通りに自分の家の墓があるのも因縁なのか?藤の花と猫はあっていたのだ。猫は忍び足でやってきて辺りを乱さないからだ。自分には猫の性質がある。猫は敏感に辺りの気配を察知する。社交嫌いでもあり人嫌いでもある。犬のようにうるさくじゃれつかない、冷静であり孤独なのだ。ただ自分の場合は非社交的なことが度をこしていた。これはニ−トの場合は引きこもりとなる性質だったのだ。表通りは店も魅力ないし道は車で占領されて狭いがこの裏通りは人通りも少なく自転車で行くのには落ち着いた道なことを発見したのである。こんな一万くらいの町に新たな魅力を発見したのも不思議である。

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