2013年06月08日

津浪で見直された南相馬市金沢地区の延命地蔵尊 (延命地蔵は庶民の願いが特にこめられていた)


津浪で見直された南相馬市金沢地区の延命地蔵尊

(延命地蔵は庶民の願いが特にこめられていた)

●全国の延命地蔵の伝説、由来など



 延命地蔵の民話
http://musubu3.sblo.jp/

http://hukumusume.com/douwa/i/minwa/04/01a.htm


子育て延命地蔵
http://www.rinzo2.jp/~njkmmy/w_t-baby/kosazuke_kosodateenmeijizou_00.html


姥ケ橋延命地蔵


姥ヶ橋とはかつてこの地に流れていた稲付川に架かっていた橋です。昔、誤って幼子を溺れ死なせてしまった乳母が、この橋から身を投げ
たという伝説があり、延命地蔵は、この話を哀れんだ村人が供養のために建てたといわれています。(碑文によると川に架かる石橋の安全供養とされています。)
毎年夏にお祭りがあり、大変にぎわいます。

地蔵菩薩像は石材を丸彫りしたもので、台座には享保9年の銘があります。
http://www.kanko.city.kita.tokyo.jp/data/i/7.html


桝形の延命地蔵の由来


江戸時代、安政5年日本各地ではコレラが大流行し、多くの人命がなくなっていました。郡上でも同様にコレラが蔓延し、危機的な状況のなかどうかしてこの災難を鎮めようと元治元年この地蔵尊が建立されました。
以後、人々によって延命地蔵として代々まもり継がれています。
http://www6.ocn.ne.jp/~artwing/jizo.html


itachigawa111.JPG
http://www.igasho.com/ishikuramachi-enmeijizou.htm


延命地蔵(えんめいじぞう)は、留萌市瀬越町にある地蔵。


死してのち
 楽しきものは
   花ぞかし
 たむけてくれよ
   詣る人々

http://rumoifan.net/shokupedia/index.php?title=%E5%BB%B6%E5%91%BD%E5%9C%B0%E8%94%B5

これは由来不明というけど面白いと思った。


石造の地蔵菩薩立像じぞうぼさつりゅうぞうで、総高180センチメートル、富士大山道ふじおおやまみちと橋戸道はしどみちが分岐する場所にたっています。台石には、安永あんえい4年(1775年)に谷原村の念仏講中が建てたことが刻まれています。台石の向かって右側面には「みぎ はしど道」、左側面には「左 たなし道 大山道おおやまみち 二里」と刻まれており、道しるべも兼ねていました。往来の多かった道沿いの延命地蔵のありかたを示しています。現在も地域の方々によって信仰が続いています。
 http://www.city.nerima.tokyo.jp/annai/rekishiwoshiru/
rekishibunkazai/bunkazai/bunkazaishosai/b059.html


延命地蔵尊は今から約170年前(文政年間)に建之され、当所に移築されましたのは、今から約80年前のことです。当時は江戸五街道の一つ中山道を通行する旅人がここで必ず一休みされました。
当地で死亡した人馬の霊を供養するために建之されました。
http://sugamo.or.jp/promenade_index.html


元禄、宝永、天明、天保期と続く飢饉に加え、疫病が蔓延して連日のように瀕死者が相次ぐなか、当院の檀信徒たちは大仏殿に籠り、熱心に祈祷すると、大仏様はたちまち玉のような汗を流し、人びとの祈願に応えるかのように、大仏殿にお籠りををした人たちは誰一人として罹病しなかったと言い伝えられ「汗かき地蔵」と呼ばれています。また戦争中、出征前に大仏様にお参りした人たちは無事に戦地から帰ることができたことから「弾丸よけ地蔵」とも呼ばれています。
http://shoubouin.com/%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF/
%E4%B8%88%E5%85%AD%E5%BB%B6%E5%91%BD%E5%9C%
B0%E8%94%B5%E8%8F%A9%E8%96%A9/


●様々な災害からの延命を望んだのが延命地蔵


延命地蔵は全国各地にある。それは何のためかというと自然災害、病気、安産の願い、子育ての願い・・・そうした庶民の切なる願いがあり祈りの場となった。民話とか伝説には当時の現実が反映されている。


昔、誤って幼子を溺れ死なせてしまった乳母が、この橋から身を投げたという伝説があり


乳母というのは江戸時代辺りは奉公する武士の家やその他普通にあった。それは一族の結束を固めるものとして武士の家ではあえて乳母をその跡継ぎの子の養育をまかした。その乳母となった家ではその子を我が子のように思うようになるからである。最近でも乳が出ないと親戚のものが乳母になっていた人がいた。乳がでないということも牛乳などないから深刻だった。飯館村の佐須村には畑に乳神の碑が畑にあった。あれだけ辺鄙な所だと乳がもし出なかったら子供が死んでしまうだろう。
だからあの乳神の碑には生活の重みがある。佐須という辺鄙な所だからこそその価値が高いのである。

延命地蔵という名前自体が何かその願いが集約されている。人間は様々な自然災害であり病気であり安産の願いであり子供がたくさん死んでいた。だから子だくさんになっていた。自分の母方の実家も八人生んで半分死んでいるとかある。子供が死ぬことが多かったのである。延命地蔵とはまさに人間が長く生きられない時代が長くつづいた。延命することが願いになっていた。その延命は自然災害や病気や貧乏で死ぬ、飢饉で死ぬものも多くそれが願いとなった。延命地蔵はそれだけ全国に多い理由がわかる。また街道の道標となっていた。馬頭観世音があるのも馬や牛を供養したことでもわかる。街道でも馬を使うとすると途中で死ぬ馬もいたからである。


●南相馬市原町区金沢地区の延命地蔵は津浪から残ったので新たな価値が生まれた

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皇大神宮


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皇大神宮(こうたいじんぐう)は、三重県伊勢市にある神社。伊勢の神宮の2つの正宮のうちの1つである。

これはお伊勢参りなどがあったからここにも祀られていた。戦争のとき延命地蔵に祈ると死なず帰れた人が多かったとかも伝えられるのは国家と関係もしていた神だった。


秋葉山


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秋葉大権現(あきはだいごんげん、現在の秋葉山本宮秋葉神社を起源とする)である。一般に秋葉大権現信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが、実際には各地の古くからの神仏信仰や火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多く、その起源が定かであるものは少ない


水天宮


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仏教の神(天部)である「水天」の信仰は、神仏習合時代には「水」の字つながりで「天之水分神・国之水分神」(あめのみくまりのかみ・くにのみくまりのかみ)と習合していた。ミクマリノカミは本来は子供とは関係なかったと思われるが、「みくまり」の発音が「みこもり」(御子守り)に通じるというので「子育て」の神、子供の守り神として信仰されるようになった。


山神


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これに上に小牛田と記されてあり小牛田が山神信仰の基となっていた。ではこれは何を祈ったのだろうか?

また、山の神はたくましい女性で、次々と一二人の子どもを生んで丈夫に育てたとも言う。山の神の縁日が十二日であり、彼女を「十二様」というのはこのことに由来する。

 この由来で、山の神はまた、お産の神として厚く信仰されている。山神はすなわち産神でもある。当地方で妊娠・安産の神として有名なのは宮城県小牛田の山の神である。以前は、当地方の村々の嫁御や主婦たちは「産神講」を結んで、小牛田の山神様に月参りをしたり、または、月の十二日に講の宿の床の間に「産神」の掛軸を掲げて礼拝していた。いわゆる「産神講」である。
http://sca.core.ac.jp/kamurorenpo/?p=105


馬頭観世音


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近世以降は国内の流通が活発化し、馬が移動や荷運びの手段として使われることが多くなった。これに伴い馬が急死した路傍や芝先(馬捨場)などに馬頭観音が多く祀られ、動物供養塔としての意味合いが強くなっていった。このような例は中馬街道などで見られる。なお「馬頭観世音」の文字だけ彫られたものは多くが供養として祀られたものである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%A0%AD%E8%A6%B3%E9%9F%B3


延命地蔵というのは庶民の切なる願いが集約されたものだった。しかしあそこの延命地蔵は今まであることすらわからなかった。家にさえぎられて見えなかったのである。相馬地域でも狭い範囲にしてもわからないことが多々ある。あの延命地蔵は津浪で新たに見直された。津浪という大自然災害が生き残った、まさに延命したということで霊験あらたかだともなる。どういうわけか神社が津浪から逃れたのが多かった。それは比較的高い所にあったからだ。烏崎の八龍神社はあれだけ高い所にあったから海岸に接していても残ったのである。階段が急だからあそこに上るのは一苦労であった。でもあそこに逃げれば助かったのである。なぜあんな高いところに建てたのか謎である。神社の由来はわかりにくいのだ。八龍神社は水と関係しているともいう。それでも何が由来なのかわからなくなっていた。烏崎村は壊滅した。金沢地区も延命地蔵のある所はほとんど壊滅した。その前には二軒しか家が残っていない、延命地蔵の前には家は集中していたのである。
でも津浪からまねがれた延命したということで別な価値が新たな霊験が生まれたともなる。

あそこにあれだけ古い江戸時代のものがあるとは思っていなかった。江戸時代のものがあるときそこは江戸時代から生きた人たちがいたから貴重である。津浪で壊滅したけど延命地蔵はまるでその村の根っこのように残っていたのである。

延命地蔵というとき現代はこうした庶民の願いはすべて変わった。病気は医者であり火事は消防であり馬は車に変わった。だから庶民の切なる願いは医者頼み病院頼みとなった。安産でも子育てでもそうである。ある意味でこれらのもっている価値は失われたのである。延命地蔵に願うより科学信仰でありお医者様信仰であり病院に頼るのが現代である。
そして今では延命治療はやめてくれ、早く楽に死なせくれというのが庶民の願いとなった。それでぽっくり地蔵の方が人気が出たのである。
庶民の願いも時代とともに変わる。ぽっくり地蔵は全国ではかなり少ないが延命地蔵は多いのこともそれを示している。


それでも津浪のような災害は予測されていなかった。だから原発事故でも津浪の災害でもやはり科学を越えたものがあり神に祈るという行為は廃れるものではなかった。ともかく延命地蔵は明かにあそこの村の中心としてあったのだ。今まで注目しなかったが津浪で注目されたものが多々ある。金沢の延命地蔵もその一つだった。
「津浪延命地蔵」とかなるのが今回の津浪で生まれたのである。

posted by 老鶯 at 11:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)
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