
一番目の虹

二番目の虹 (山を越える)

三番目の虹 (消えた虹がまた出る)
冬の虹なかなか消えぬ余韻かな
山越えて切れ端残る冬の虹
夢なれや消えてまたいず冬の虹
美しくはかなく消えぬ冬の虹
介護して老いのあわれや冬の虹
恩返し老いてあわれや冬の虹
急に曇ってきて帰るとき風雨になり冬の虹を三回見た。こんな経験はない、一回目は左から半分かかっていて今回の虹は長かった。次に山を越えたらその切れ端が遠くにかかっていた。実際は大きな弧を描くのだが半分だけかかりその端のもう半分が見えた。全部がつながって大きくは見えない冬の虹だった。それから道を進むと一回消えたと思った虹がまたかかっていたのだ。この虹は早く消えた。結局三回虹をみることになったのだ。虹は縁起がいいというのは本当だろう。だけどこれだけの虹を見たことはない、冬の虹というと現在の自分の状況にあっていた。それは残りの人生の美しい余韻のように虹がかかっていたのだ。人間の最後も冬の虹のように美しいといい、はかないのではあるが美しくはかないのである。人間はみな死ぬ、でも最後は美しくあってほしいというのはすべての人の願いである。認知症でも悲惨な面はあるがなお人間らしくありえる。それはやはり回りの対応しだいになる。認知症の場合、それがむずかしいから悲惨になる。世話になった人が老いても来てくれる。認知症の場合は話し相手になる、ただ何もしなくても一緒にいてくれるだけで介護にてっているのだ。一緒にいることが嫌がられる病気のためである。だからたいがい離れていってしまい付き合いはなくなる。それが認知症の人にとっては悲しいのだけどこれは同じようにつきあってくれというのも無理である。ただ少しだけでも配慮してくれればいいと思うがこれも病気がわかりにくく対応がむずかしいからめんどうなのである。
プログはこういうとき即座に出せるからいい、今虹を見たよという生々しい印象のときをリアルタイムで出せるから生放送に近くなるのだ。だから毎日見る読むのがプログなのである。それで毎日書き続けばならなくなる。それをつづけることがプログを持続するかどうかの分かれ目になる。二年間は毎日書いてきたのも不思議である。俳句短歌はちょっとした暇を見てでも作れるのだ。これが小説とかなるとむずかしい、介護があってもこれだけ書けたのは家でも暇見て放送できたからである。だからプログは病気の人も書いているし書くことができるのだ。原稿書いたり校正したりとかめんどうでないから誰でも病人でもプログはできるのが強みである。