2013年06月06日

ベ-シックインカムの悪い例が原発事故周辺の市町村 (補償金で誰も働かず市町村は衰退、荒廃、消滅?)


ベ-シックインカムの悪い例が原発事故周辺の市町村

(補償金で誰も働かず市町村は衰退、荒廃、消滅?)


●働くことはとは何であったのか?


そもそも人間が生まれてから働くことははじまった。その時働くことの意義は何だとか考える人もいないだろう。働かねば食えないのだから働くことが強いられていたのである。ギリシャで余暇が生まれたのも奴隷が日常の仕事をしていたからでありそこから余暇からスコ-レ(スク-ル)が生まれた。
余暇が文化を生み出した。哲学や様々な学問も生まれたのも余暇があってこそである。でもその余暇は奴隷がいて余暇がありえたのである。そこに矛盾があった。その後も何か学問や芸術や文化の発展は誰かが下働きするものがいて成り立っていた。裕福な家でも下働きの人がいないと成り立たない、それは奴隷的労働だったともなる。ただそうした裕福な家から天才とか学芸に秀でたものが生まれた。毎日下働きばかりさせられていたら学問や芸術やその他の文化的なことはできない、現在自分はある程度そうなっている。絶えず家事に介護に追われている。簡単な仕事でも結構時間をとられる。
だから前のように十分な時間がないからいろいろなことができない、介護でも寝たきりになったらポ-タブルトイレの始末するだけで時間がとられる。つまり下働きが多くなっていたのである。
現代は下働きを機械が代わりにするようになった。それでもどんなにしたって全部を機械化はできない、それで仕事に追われてしまうのである。


働くことはそもそも何であったのか?日本語では働くは端を楽にするということである。家族とか非常に狭い範囲で生まれた言葉なのである。家族の一人が苦労しているからその子供が楽にしてやりたいということなどから生まれた言葉である。家族的労働の日頃から目に見える範囲で生まれた言葉である。今は地球の裏側から食糧でも入ってくるからその労働など見ることはできない、だから例えその労働が過酷でも身近なものとはならないのである。
家族の中でその人の労働の価値を認めるということであった。いまでもそういうことがある。
介護の場面でそういうことが一番出やすい、家族としてその労働の価値を認めるのである。家事でも子供にしてみればあとで大人になって自分のために苦労して家事してくれたんだなと思うときがありその家事の労働を認める。それが介護になったとき介護する意義になる。一つの恩返しである。
介護というのは家族だとその価値を見いだしやすい、家族でもいろいろあるがひどい親だったらめんどうみたくないということがある。でも一般的に家族だと世話になったとかなりその働くことの価値を見いだしやすいのである。特に親が苦労して育てくれたときはそうでありかえって金持ちは苦労もしないから親に恩情を感じないということがある。だから金持ちの親は高額な施設にあづけられるのである。子供も介護では苦労しないということになる。子は親の背中を見て育つというのはまさに介護の時に現れやすいのである。


ところが家族的労働だと他人になるとその価値を見いだしにくい、一体赤の他人の親の介護を下の世話までどうしてするのだろうという疑問になる。この親が自分に何をしてくれたのかとなると何もしてくれないからだ。だから金だけが動機になる。だからヘルパ-などでも手伝いさんでも家族の中に入った時一番危険なのである。昔だったら女中とかは嫁入り前の修行だとかあったが今はそんなもの全然ないし若い人はそんなところで働かなくても他に働くところがあるから働かない。他人の家の中で働く動機が全くない、金だけになる時最も危険なのである。現実にそういう人を知っている。
全く動機がないから家の中を荒し回り犯罪にあう、だからそうした動機のない人、金しか動機のない人ほど家にいれて働かすことは危険極まりない時代になった。アメリカでは手伝いさんを裸にして働かせたというけどそのことが突飛とも思えない、それほど危険だし信用できないからだ。
本当は働くことで動機がないほど危険なことはないし致命的なことがわかった。


●金しか動機がないなら働く必要なし、何かしら動機がないともう働かない時代


ベ-シックインカムのいいところは働きたくなければ働かなくてもいいことである。でもそうしたらみんな働かなくなるではないか?それはこの辺で実際に起きたことである。補償金をもらっているから毎日パチンコなどギャンブルであり東京まで競馬にも行っている。その人の言い分は今さえ良ければいいと言っていた。別に働く必要がないなら人間の悪しき面としてそうなる。要するにギャンブルが生きがいでありそれは補償金でまかなえる。だからベ-シックインカムの悪い行き着く先は原発周辺地帯で実際に具体的例として起きているのだ。
ではなぜ働かないのかという時根本的に働く動機がないことなのだ。金だけしか動機がない人は金があれば働かない、実際自分も流れ作業とか事務とかはしたくなかった。自分のあう仕事もないので仕事はしなかった。コンビニのアルバイトとかス-パ-のレジとか工場とかの流れ作業とか時給いくらかとか働きたくないのが普通だろう。


それが原発事故周辺では現実にそうなっている。人を募集しても来ない、補償金とかもらっていれば働く必要がないのだからそうした仕事もしない、時給がチェ-ンのレストランで1200円になっていた。それも昼間でそうである。そこでは支配人のような年配の男性がお膳を運んでいたのである。
この辺では募集しても人が集らない、そもそも働く動機がないのだから補償金がもらえば働かない、また高齢者も他より多くなった地域だから働かない、年金でももらえば働く余力があっても老人は働かない人が多いのだ。働くことがわずらわしくなるしそもそも動機がないのだから働かない。
犯罪でも一番大事なものは動機なのである。何かしらの動機があれば犯罪者として目星をつけやすい、動機がないと皆目見当つかなくなる場合がある。「神は心みている」というとき人間を見る場合、心が動機が一番大事なのである。金だけしか働く動機のない人は働く価値を見いだしていない人でありそういう人を働かせなくなくするのもベ-シックインカムの重要な役割になる。
そういう動機がない人が無理やり働くことは社会にとっていいものではないからだ。
そんな理想を言っていたら誰も働かずみんなギャンブルになりどうなってしまうのかともなる。
そのことがいままさに原発周辺地帯で具体的に起きているのだ。


●誰も働く価値を見いださない時、市町村は荒廃して消滅する


---働く価値を見いださない市町村は荒廃して消滅する-----

これはこの辺で具体的に起きている。ベ-シックインカムになったら働かなくてもいい、働きたくなければ働かなくてもいい、つまり働く価値が見いださなければ働かなくてもいい。
ベ-シックインカムをつきつめると具体的にはこうなる。働く価値が見いだせない市町村は消滅するということである。これは原発事故周辺で具体的に起きていることである。補償金で働かなくてもいい。働く動機もないからギャンブルに興じる、それを誰もとめることもできない、なぜか?


  働く価値を見いだせないから働かないのである
 
結果としてどうなるのか?原発事故周辺地帯では毎日パチンコでありギャンブルである。募集しても人は来ない、時給をあげてもこない、いたるところで働く人がいなくなりサ-ビスも受けられなくなる。病院でも看護師がたりない、医者がたりない、福祉では介護士がたりない、外部から今は応援されているがあと何年かで外部から応援には来ない、ギャンブルで助ける人が遊んでいるのに外部の人はもう助けるのも馬鹿らしくなるだろう。そして最後にどうなってゆくのか?
テレビでやっていたけどある限界集落で村のス-パ-がやっていけないと働く人がいなくなった。それで老人ばかりが取り残されそこに住む老人が無料で働きなんとかス-パ-を維持するようになっていた。その時働く意義というか価値というかそれはあまりにも歴然としている。
ス-パ-がないなら生活すらできない、どうしたらいいんだ、みんなで無料でも働かねばならないとなったのである。


原発事故周辺ではその前に働く人がいなくなりギャンブルする人ばかりで生活を支えて働く人がいなくなるのだ。極端化するとそうなる。ギャンブルばかりしているような市町村にはいたくないと出てゆく人も増えてくる。すると老人とかギャンブルだけをしている人たちしか残されない、誰も働かないなら遂にはその市町村は荒廃して消滅する。大内村ではもともと不便だったから郡山市で暮らせようになったら便利だから帰りたくないという、その大きな原因が補償金だったのである。
要するに大内村で暮らす価値を見いだせなくなったのである。何か大内村で暮らすメリットや価値があったのけどそれも便利な生活をしているうちに忘れられたのである。
つまり働くことの本質的な価値が原発事故でその市町村が問われたのである。
故郷を喪失することがどういうことかなどいろいろこの辺では問題が山積みでありいろいろな人間的課題が生まれたのである。


ベ-シックインカムは


働く価値が見いだせない時、市町村は荒廃して消滅する


市町村だけではない国すら消滅する、みんなギャンブル狂になったら当然そうなる。ということはいかに働く価値を見いだすかにかかっている。いかに働く価値が自ら見いだすことが大事になる。
それは本当に生きるか死ぬかの問題にもなる。それを見いだせなかったら市町村も国も消滅するからだ。その価値を見いだすことに命がかかってもくるのだ。

でもこのことは笑い事ではなくおおげさでもなく人間にとって一番大事なのは働くにしても動機なのである。この世でその働く動機を見いだせないものは消滅するしそれこそ生きる価値がないものとされる。ギャンブルだけをしているものはいくらベ-シックインカムでも許されないものとなるのだ。
つまり自ら生きる価値を働く価値を見いだせないものは死に価する社会なのである。


「最低の金はもらえんだから働かないよ」
「じゃなにをするの」
「毎日パチンコやギャンブルだよ」
「そういうふうに働く価値を見いだせない人は追放されるよ
ベ-シックインカムで補償するのはあなたの働く価値を見いだすことなんだよ」
「それがギャンブルでもいいじゃないか」
「そうしたら市町村は荒廃して消滅するよ、働くことの価値を見いだせない市町村は消滅する
誰も働かないところでギャンブルだけしている人が残りどうするんだ」
「そういうことになるのか?今が良ければいいんだよ、そんな先のことは考えないよ」
「この辺じゃもう働く人がいなくなるから生活できなくなるんだよ」


確かに何か必要かなど人間にとって働くことは多様であるべきだから強制できない、でも働く意義は価値は家族労働でもいいから自ら見いださねばならない、それがベ-シックインカムの責任なのである。だからこれは結構厳しい社会となる。働かなくていい社会でも結果的に前よりも働かざるをえない社会になる皮肉がある。働かなくてもいい社会は最も働くことが必要とされることにもなる皮肉がパラドックスがある。何か人間には常にそうしたパラドックスがある。そもそも民主主義とは民が主になる時代である。すべてが対等にもなる時代である。
誰かに指示されて働く時代ではない、奴隷の時代は終わった。それがベ-シックインカムにもなる。
でもここでも自らでは価値をルものを民は見出せるのか、何が価値があるものなのか自ら見出されるのか?
それが問われている。民衆の個々にそういう責任が課せられるのである。

「自分は価値を見出そうとしましたがどうしても見出せません、ギャンブルしかできません」
「じゃ、社会から追放です、死んでください」

冗談でなくてこうなるかもしれないのである。

 

posted by 老鶯 at 21:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題
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