初夏の俳句と写真
(相馬市の駅前の花屋や原町区の金沢地区のこと)]
相馬市の花屋には歯医者の帰りにいつも寄っている。あそこの花屋店主は応対がいい、まず小商店は応対が良くないともたないだろう。ここでは言えないがなんで買いにきたんだとかいう応対が未だに東北にはある。怖くて買いにいけないということが外部の人が言っていたのもわかる。
自分もそうだがまず東北人は商売には向いていないのだ。黙々と土を耕しているのがにあっている風土なのである。近江商人の末裔のような人にあったけど全然違った人間だった。ねぎるのが実にうまいのである。でも自分はまねて失敗した。そもそも外国では物価が安いのだからそんなにねぎる必要がないしねぎることは相手も困るのである。そういうことをあんまり考えなかった。
物価の差がありすぎるところは多少高く払ってもしょうがいなのだと思った。ただ外国旅行がなれていないからそうなった。外国を知ることも相当体験をつまないとわからないのだ。
そもそも大阪弁のようになっていれば日常的商売言葉になっているから商売しやすいのである。
花屋は場所と人間とまた品数とか品質とか問題になる。花屋というとき一番見せることが大事になる。店屋は見せ屋だったからだ。まず花は見て買うからだ。そして花に通じること植物に通じることはかなりの経験が必要になる。その知識がかなり必要なのである。自分は花の名前は知っていても園芸的なものはさらに土のことやいろいろ植物を知らなねばならないからかなりの知識がないとできない。ただ売れ筋は仏壇にあげる花とかなる。だから商売的になるにはそうしたものを日常的に売れる必要がある。立地としてはいいとしても今は車だからなかなか人が寄らない通りになっている。
相馬市より原町市はシャ-タ-通りになっていて何か駅前通りが荒廃している感じだった。
相馬市はまだそういう感じがしない、それでも全国共通で通りににぎわいはない。
でもこれからどうなるかわからない、買い物を楽しむというとき通りとか小商店だったら話ししたりとか別な価値を求めるようになる。ただ買うというだけ安く買うという時代は終わっているかもしれないのだ。それでも小商店は高度背経済成長時代とは違うからよほど経営努力をしないと成功しないだろう。回りでもただ安いから買うとかそういう時代は終わり買い物を楽しむとなればス-パ-なんかは向いていない、花について専門的な知識があるわけではない、ただ売っているだけだからである。現代はいろんな分野で知識が求められているのかもしれない、知識社会だという人もいる。
知識も簡単に身につかない、これも積み重ねであり時間がかかるのである。
花屋は花について植物の知識が相当ないとできない、駅前の花屋はまあまあの知識がある。
応対もいいからうまくやればもつのか、ぎりぎりでやっているというのもわかる。
今回は黄色のカラ-という花を買った、これは鮮やかであり夏らしいものだった。
どこから来たのか何の鳥なのか?鳥を写真にとることができた。鳥を写真に撮ることはむずかしい。
鳥は長くとまっていない、すぐに飛んでいってしまう。この鳥は結構長く苫ていたのでとれたのである。
それから鹿島区の川子の高台からの森の道へ入っていったところに家が隠されるようにあった。
そこに古井戸があり菖蒲が咲いていた。こんなところに家があったのかと不思議だった。
近くでも知らない所がまだまだある。
原町区の金沢でも延命地蔵があそこにあるのがわからなかった。家で隠されていて見えなかったためだろう。藤の花が咲き今はノカンゾウが咲きはじめた。ここも夏らしい。
でもあの神社は誰が守るのかとなる。村はほとんど壊滅した。二軒だけ残ったがそれで村が守れるのか?祭りとか神社を守るのも消滅するのか?江戸時代からのものは信仰というよりは今は文化財となっている。江戸時代のものは明治以降と比べるとき価値がある。
江戸時代からあったいうだけで価値があるのだ。
馬頭観世音の碑もあったがこれも文久とか江戸時代だった。
馬頭観世音の碑は明治以降が多く大正や昭和でも多い。
荷馬車など馬を使っていたからそうなる。
江戸時代がなぜまれにしかないのかわかりにくい、馬を供養するのは明治以降の方が多かったのである。
金沢地区というのもどういうふうに村が成り立ったのかその歴史かわかりにくい、どの家が古い家なのかとかが村をみるとき大事になる。その家が津浪で流されたからわからなくなった。
結局金沢村の変化も激しかった。火力発電所がなく松原だけのときがあった。それからサ-フィンのメッカになったのである。その時から村という感覚はなくなっていた。
それでもここに延命地蔵があったということでここも江戸時代からある古い村だと今になってわかった。
つまり津浪がきていろいろその場のことを村のことを前より興味を持つようになったのである。