2013年06月02日

南相馬市原町区金沢地区の津浪の後の変化 (延命地蔵の神社が残っていた不思議)


南相馬市原町区金沢地区の津浪の後の変化

(延命地蔵の神社が残っていた不思議)

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南相馬市の原町区の金沢の方に行ってみた。ホテルが一軒また建っていた。近くにも作業員のプレハブのホテルがあるのにまた建った。この辺で増えたのはホテルである。それも滞在型のホテルである。まだ作業員が来ているから需要があるのだろう。


金沢地区の火力発電所はもうもうと煙をあげていたから前と同じように発電所しているから正常化したのだろう。やっぱりサ-プィンしている人が数人すでにいた。サ-フィンでまたにぎわうのだろうか?そのためにはあそこにまた施設を建てないとだめだろう。津浪はもう当分は来ないからサ-フィンをする人は来るから何か施設が必要である。


雨降ると湿地帯化してくる。ここは相当低く感じる。もともと湿地帯だったから元の状態にもどってゆく。木が二本建っている所には結構家があったけど二軒しか残っていない、それでも良く残ったと思う。地形の関係で辛うじて残った。この残った木はやがて枯れてしまう。
この木を見ていると何か津浪の凄まじさを感じる
まだ何とか残ろうとする執念を感じてしまう異様さが漂っている。
もしかしたら木にも気持ちがあり庭にある木はすでに自然の木ではない
人間の思いがこめられた情が移った木だから余計にそう見えるのである。
この二つの木は本当に不思議である。


そこから神社があった。延命地蔵とありこれは津浪で流されなかった。それほど高いというものではない、碑も流されていない、あそこに逃げれば助かったし裏山にすぐ逃げれ助かった。
烏崎の八龍神社も津浪からぎりぎりまねがれたのである。
なぜそういう場所にあったのか?
もしかしたら慶長津浪のことを聞かされていて高い所に建てたのかもしれない、そういう言い伝えがあって高い所に建てられたのかもしれない、津浪で被害からまねがれた神社が多いからである。

ここではどれくらいの被害があったのか?
この延命地蔵は江戸時代のものでそれなりに古い。

安政とか江戸時代の後期のものか?
水天宮というのはめずらしい。安産と子を授かる神である。
子育て地蔵とか安産の願いの碑は結構ある。

それだけ安産を願うものが切実だった。

それにしてもこの神社も不思議である。よく津浪から残った、それが延命地蔵だというのも不思議である。まさに津浪から延命したのである。長生きを望んだものだから違うにしろ何か津浪から逃れたものとして記念される。

ここの部落はもう消滅するからこれは記念として残されるだけになるのか?
ただこれは文化財としては貴重である。


まずあの二本の木もそうだが海岸の松も赤みがかり枯れてくる
一葉松は葉が緑であり枯れないみたいだ。
やはり津浪をまともに受けていないし塩分もそれほどしみこまなかったからだろう。
あれが残ったのは良かった。


津浪の後遺症はまだまだつづく、でも自分としては何か楽になったので気分的には正常化したように思う。6年間は異常な悪夢だった。人間わかったことは体が悪くなったらどんなことしても心も正常ではいられない、その体が弱くなったとき他者から責められたから辛かったのである。

津浪の後の風景は以前としてつづいているしやはり時間とともにまた変化していたのである。
 
posted by 天華 at 22:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 津波、災難の対処
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