

腰休め手押し車や白き藤
老いたれば生のひそけさ白き藤
街道の残れる松の影涼し老鶯なきて耳をすましぬ
老鶯の鳴き合い静か森の中奥に一軒家のひそけし
アパ−トに三カ月住みてあわれかななじむ近くに八重桜散る
家族に病人とか認知症とか介護する人をかかえると社会の見方が変わってくる。全然社会とかかわりなかった自分も他者とかかわらざるをえなくなる。介護とかは一人でできるものではないからだ。そこにせ他者のかかわり助けが必要になってくるからだ。だから介護は国とか公共的なもののサポ−トなくてはこれからできないというのも確かである。家族だけではよほど人手があるとか恵まれていないとできないからだ。
なんか老人と病気のことで苦しんだから手押し車を押している老人や介護のドラマとかが身近に感じるようになった。老人から見た地域とか社会はまた違ったものなのである。老人には身近なものが大事になる。家族とか近くで接する人や店などが大事になる。遠くはあまり関心がなくなる。私は国内旅行はほとんど全部回った。海外も行ったがこれはまだまだであったがこれから海外に行くことはむずかしくなった。自分の関心はこうして外へ外へと向いていた。しかし今や狭い範囲に向けざるをえなくなった。視野が狭くなるがどうにもならない。
それにしても家が二つあるような生活も奇妙である。アパ−トの近くの八重桜も散ったが何回もここを通るのでなじんだ道となった。三カ月くらい通うとそこもなじんだ場所になる。普通だったら無関心だが三カ月間毎日通うとそこが親しい場所となってゆく。これだけ狭い町内でも違った感覚生まれのも不思議である。現代の旅の欠点はその場所なじむ間が短すぎるから印象に残らないのだ。江戸時代の旅はスロ−だからいい俳句もできたのである。ものに自然になじむには人でもそうだが時間が必要なのである。時間の中で印象化記憶化されるのだ。空間と時間があるが空間の領域が世界大宇宙大にも拡大化したが時間は容易に拡大化できない、そこに何日も何カ月も留まることによって印象化されるものは空間を拡大化しても体験できない、それで旅行記には浅薄なものが多くなっている。旅が早すぎて印象化できないからだ。
一本の老木があるとするとそれは固定化されている。そこで体験されているのは時間なのである。雨風とか暑さ寒さとか時間の中で起こることを体験している。その時間の中で根をはり年輪を重ねてゆき重みをもってくる。遺跡なども時間の中で残った重みがでてくる。老人も時間の中で重みをもってくる。これは長い時間が必要であり空間を拡大しても備わらない、世界を旅行しても簡単には時間の中で備わってゆく知恵などは作れないのである。世界旅行してもなかなか外国を理解できないのは時間を体験できないからなのだ。歴史は長い時間のなかで作られてきたのだからその歴史を知るにはまた長い時間が必要だとなる。外国旅行してもその印象が浅薄になるのは時間を体験できないからなのだ。